教会あたふた記

キリスト教に対してわりと強めのシンパシーをおぼえる割に、結局はどこにも入信していません。

理由はそこまで信仰心がないということのほかに、もうひとつある。

「疲れるから」

 

教会には3つ足を運びました。

うち2つはメソジスト派といわれるプロテスタント教系の教会、もうひとつはカトリックでした。

共通していたのは「ど新規」で見学に行っても、みなさんとてもやさしく受け入れてくれたことです。

教会に来ているひとたちも、いわゆる「まとも」な感じのひとが多かったです。

新規加入希望者と見て強引に入信を迫るひともおらず、まさに来るものは拒まず去るものは追わずで、さわやかな姿勢でした。

だから感想としては、とても好感を持ちました。

ただなんというか、思い切って言うけど、面白くはなかったな。

いい意味で無個性な感じのひとが多くて、おわ、なんじゃコイツオモロゲやないか、ケッタイやないか、っていう人は結局一回も見なかった。

なんか、ふつう。

 

教義的には、仏教なんかそっちのけで「複雑怪奇」でして、それは思想体系ではなく歴史のほうです。

http://yagitani.na.coocan.jp/kurihon/kurihon18.htm

ちょ、おま、何考えとんねん! っていうぐらい多くの派閥があって、これはもう、人間のアタマでは理解できないほどであります。

とくにプロテスタントに至っては数え切れないほどの派閥があって、ルーテル派とか聖公会とかメソジスト派とかバプテスト派とかがあり、それぞれにもまたいろいろ分派があって、ワケわからん。

はっきり言って、その程度の違いだったらもう一緒でいいじゃん、って思うけど、なぜか別会派だったりして、なんなんお前ら、って思う。

これに新宗教まで加えたらほんとうに「終わり」であります。

まず理解をするだけで、ひじょうに疲れる。

 

礼拝儀式でも、まあまあ疲れました。

いちばん印象に残っているのはカトリックだったのですが、入り口に水盤が置いてありました。

洗面器ぐらいのボウルに水が入っていて、参拝者(でいいのかな)はそれに指をちょっとつけて十字を切ったりするのです。

見様見真似でぼくもしましたが、正直思った。

「汚ったねえなあ」

まだ神社の手水舎みたいに水が流れていたり、あたらしい水が出ていてヒシャクで使うやつならいいんだけれども、何十人ものひとが流れていない水にビッチャピッチャ指をつけていくなんて、ちょっと待てコラ、病気すんぞと思う。手はいちばん汚いからなあ。

でもまあ見学者のくせして「汚いからヤダ」とかワガママいうのもアレだし、我慢しました。

ここで5%ぐらい疲れました。

 

ぼくは神父さんというのは「沢木・イグナチオ・竜一」みたいな名前で、頭髪は真っ白もしくはズルムケのおじいちゃんみたいな人かなと思っていましたが、その教会の神父さんは40代後半の真っ黒な頭髪、黒ぶちメガネをかけた実直そうな方で、有能なビジネスマンのようでした。

お話の内容は「新聞のデジタル化について」みたいなテーマで、ぼくはきっと聖書の難解な物語を聞かされると思ってビビっていたので安心しました。

昨今のデジタル化の流れと聖書の逸話をうまく組み合わせているお説教で、なるほどな、と思うことも多かったです。

 

問題は、お話がうますぎるのであります。

その教会は広く、天井も高く、わりと歴史ある教会のようで壁も石かコンクリートで、声がいい具合にコダマして、とても心地よいのです。

そこで「ええ声」で、朗々といい話をしてくれていると、眠くなってしまうのでありますね。

ドモったり、間違えたりしながら喋ってくれたほうが不安になって「何? いま、なんつった?」って耳をそばだてて集中できるんですけど、流れる水のように滔々とお話をされていると安心してしまって、ホエーと眠くなってくる。

いかんいかん! 「見学させてください」と自分から来たくせに神父さんの前で鼻ちょうちんぶら下げて寝るなど、それこそ「おまえ何しにきたんじゃ」てなもんで、なにより失礼です。

だからそれはもう、全身全霊で目をかっぴらいておりました。

しかしどうしても睡魔に打ち勝つことができず、一瞬「ウトウト・・・」となってしまいました。

 

そのときとつぜん、周囲のひとが「ババババっ!」と立ち上がったのです!

びっくりして、ぼくはリアルに、ほんとうに、

「ホアっ!」

と大声を出してしまいました。

どうやら賛美歌を歌う流れのようでした。

ぼくも急いで立ち上がって、どどどどうしようと思っていたら、

「ここですよ」

と、右隣に座っていたたぶん中学生ぐらいの女の子が、入り口で配ってくれたレジメを指差して教えてくれました。

「あ、ども、あ、ありがとうございます」

結婚式かなにかで聞いたことがある賛美歌でした。

オルガンの伴奏があって、ヨシ、いまだな、というときに、

「ファ」

とわりと大きめの声を出したところ、伴奏はまだ終わっていなかった。

(しまった)と思ったけど、気を取り直してもういちど伴奏を聞き、あらためて

「ファ」

と大声を出したら、まだだった。

そしてよく手元の紙を読むと冒頭は「ファ」ではなく「イエス」で、ぼくはなぜか音符のほうを読もうとしていて、だからつまりぼくは、賛美歌中に突如意味不明の音を2回立てていたことになる。

すると右隣の女の子が「ふぐぅ」というヘンな音を立てていて、ようするに笑いをこらえているようでした。

こういうときは、「口パクでごまかす」というのが得策なのでしょうが、なにぶんぼくには「知らない歌でも全力で歌う」というよくわからない信条があって、その信条が裏目に出たわけでした。

 

こういうときは、すみませんと謝るべきなのか、はたまた、そういうのは無視して何事もなかったかのように朗々と歌うべきなのか迷いが生じた結果、知っている曲なのにたいへんな変拍子で歌ってしまいました。

ヨシ、やっと終わった、と額にににじんだ汗を拭きながら座ったところ、まだ終わっていなかった。

「2番」も歌うようでした。

急いでまた立ち上がって、みんなについていき、今回こそ絶対に終わった、まちがいない、ということを精密に確認して、やっと腰を下ろしました。

そしたら、こともあろうか、周囲はまだ立ったままで「お祈り」をはじめた。

おわ、これはいかん、おわ、とまた焦って立ち上がったら、こんどは前のイスの背もたれにしこたまヒザを打ち付けてしまって「アダー!」と声を発してしまい、そのままその音量で「スミマセン」も叫んでしまった。わりと響きました。

「ふぐぅ」

また右隣からへんな音が聞こえる。

もう、やだあ。

 

そのあといろいろあって、もう終わりというときに、神父さんが、

「今日は新しく来られているかたがいます」

とおっしゃって、ぼくに「立て」という。

これはプロテスタントの教会でもあって、どうも見学に来たひとにも自己紹介をさせるというのが通例のようです。

こういうとき、ぼくはいつも迷ってしまって「一発、笑いをとったほうがいいのだろうか」などとよけいなことを考えてしまう。

しかし知らないひとばかりでどこがツボなのかわかるわけもなく、ていうかそもそも、こんなときにウケる必要はないのだと思い直して、

「○○から来ました□□です、きょうは勉強になりました、ありがとうございました」

と、あたりさわりのない挨拶をすることにしています。

その日もそのとおりにやって座ろうとしたとき、じつは教会のイスが「跳ね上げ式」で、イスが自動でたたまれてしまっていた。

ぼくは空を掻き、ザリ、と盛大に背中を背もたれにこすりつけつつ、それを止めうとしてのけぞりつつ、結局は地べたにダダダ、と座ってしまった。

「ふぐぅ」

また右横から、声がきこえる。

 

ぼく以外にも2人ほど「ご新規さん」がいたようで、ぼくはつとめて「えっ。何も起きていませんけど。何か?」みたいなふつうの顔をして、おとなしく座っていました。

しかしどうも、さきほどコケたときに床のホコリを吸ってしまったのか、鼻がムズムズする。

いかん、ひとの挨拶中にクシャミするのは、失礼だ。

フェ……フェ…フェア…、

よし、止まった、と思った瞬間、

「ヘーックショイ!!!」

とやってしまって、こともあろうかいっしょに「ブッ!」と屁をこいてしまった。

「おわっ、すみません。オナラ出てもーた、アハハ」

もうなんだかどうでもよくなってしまって、まあまあの大声で独り言を行ってしまったら、とうとう右どなりから、

「うわはははは」

という笑い声が聞こえて、つまりはあの親切な中学生が耐えかねて笑ってしまったようです。

彼女は顔が真っ赤になっていました。

わるいことを、したなあ。

 

すべて終了して、教会の出口で一服していたところ、妙齢のきれいな女性に声をかけられた。

彼女の後ろには、あの親切な女の子もいた。

どうやらあの笑ってしまった子のおかあさんのようです。

しまった。

いろいろ「やらかして」しまったので、怒られるのではないか。

身構えたところ、ぜんぜんそうではなくて、

「入信を希望されているのですか?」

という質問でした。

「あ、いえ、なんていうか、いちど見てみたかったもので、正直興味本位です」

「そうですか。ミサはどうでしたか?」

「ええ、なんていうかその、勉強になったというか、たいへん気持ちが落ち着きました」

うそつけ!

落ち着いてたら、あんなにいろいろ、バタつくわきゃあねーだろ。

……っていう「ツッコミ」を正直期待してしたところもあって、そうしてもらったほうがむしろぼくは救われるのでありますが、その女性はほんとうに真面目な方のようで

「そうですか、それは結構でございました」

絵に書いたようなお上品なお方でございました。

「【代父母】っていうのは、ご存知ですか?」

「いえ、存じませんが」

カトリックの場合、入信するときは「代父母」というルールがあるようで、いわば保証人というか、すでに入信している人を「義理の親」として入信するのだそうです。

「へえ、そんなしきたりがあるんですね」

「もし私でよろしければ、代父母をさせていただきますので」

「それはどうも、ありがとうございます」

一瞬「勧誘かな」と思ったのですが、そういうことでもないようで、そのあとは教会とは関係のない、ふつうの世間話をして終わりました。

こういうふうに、ゴリッゴリに勧誘をしてこない雰囲気というのは、いいなあ、と思いました。

 

帰途につきながら、ふと思った。

「ぼくは【憐れまれた】のではないか」

初めての参列者が、じたばたと暴れているのを見てカワイソウに思って、ぼくを慰めるために、ああして声をかけてくれたのだろうか・・・

 

うむ、残念であるな。

まずぼくは、なにひとつ傷ついていない。

そのへんじつは結構「鉄の心臓」をしていて、失敗を恥ずかしいとかそういうのはまったくないです。

それよりも、もし仮にぼくを心配してくれていたとしたら、あの上品な美人のおかあさんに言ってあげたいことがある。

ひとを癒やすのは「親切」だけではない。

「アンタ、アホちゃうん?」

の一言のほうが、救わることもある。

でもまあ、ありがたいことです。

ていうかプロテスタントの教会を含めて思ったのは、「いいひと」が多いんですね。

 

ぼくの身の回りにはあまりいないタイプなので、疲れてしまった。

ぼくが入信しない理由。

それはぎゃくに気を使って、疲れてしまいそうだからです。

いいひとは癒やしよりも、緊張感をくれることのほうが多い。

 

  • ぽぽんた より:

    てらちゃん…
    すっごい わらった …

    ここ よみはじめて いちばん かも

    present for you (o^-‘)
    https://www.youtube.com/watch?v=tjbyanYNDBs

    • TERA より:

      そうですか、それはどうも結構でございました……って、これ実話ですからねえ。
      自分で読み返しても「やったなあ」と、達成感至極す。
      宗教に「向いてない」のかな、と思ったりもしました。
      きれいな賛美歌も、ありがとうございます!

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