喜ぶ練習

きょうは久々に「犬洗いの儀」を決行いたしました。

外飼ゆえにあまり洗わないのですが、さいきんずいぶんあったかいし、そろそろ洗ってやろうかなというところです。

 

犬と接していると身につまされることがあって、

「ああ、この生き物はほんとうに『喜び上手』だなあ」

と、いつも思う。

 

犬は風呂が嫌いなので最初の方こそジタバタ暴れているもののそのうちなれてきて、気持ちよさそうな顔をしはじめる。

そして「飼い主と一緒にいる」「家に入れてもらった」ということじたいにも喜びを感じているように見え、うれしそうに尻尾を振っている。

そういう姿を見ていると、うむ、なんかもっと喜ぶことをしてあげようか、という気になってくる。

そこで普段はあげないオヤツなどをあげると、これまたうれしそうに、ちぎれんばかりに尻尾を振るのである。

犬は喜ぶことで、オヤツを得た。

 

犬というかペットというものがどうして可愛いのか見ていて癒やされるのか、それは単純に「喜び上手だから」というのがあると思う。

餌をやっては喜び、遊んでやっては喜び、あたまを撫でてやったら喜び、散歩に行けば喜び、はては「じゃまだ」といって足蹴にされても喜ぶ。

喜び上手。

このことについて、われわれ人間は、完全に見習うべきところであるなあ。

 

人間も子どものころはけっこう喜び上手なのですよね。

ほんとーにしょーもない、どーでもいいことでも、キャッキャいって喜ぶ。

しかし大人になるにつけ、あまり喜ばなくなっていく。

いろいろな経験をして、いろんな種類の情報や刺激に慣れてしまって「喜べなくなった」というのがあるし、また感性が鈍くなるというのに加えて、「ワンクッション挟んでしまう」というのがある。

「このまま喜んでいていいのか、罠があるのではないか、騙されているのではないか」というふうに考えたりもする。

またいっぽうで、なんでもかんでも喜んでいたらすこし「格好がわるい、バカみたい」みたいな邪念も生まれてきて、ほんとうは喜んでいるくせにそれをグッと抑えて表現しなくなるというのもある。

まあいずれにせよ、しちめんどうくさいことである。

そんなしちめんどうくさい人生を送っていくうち、忘れてしまう。

「喜ぶのって、どうやるんだっけ?」

 

怒ったり、批判したり、文句をいったり、愚痴をいったり、攻撃したり、邪推したり、計算したり、逃げたり隠れたりするのは上手になっていったかわりに、喜ぶのがヘタクソになっていった。

あれこれ先のことやヤヤこしいことを考えるから素直さを失って、喜べなくなるんですよね。

あれこれ考えるのは「トクするために」「損をしないために」という目的があったというのに、結果そのことで喜べなくなって、損をしはじめる。

なにをやっとるんじゃ。

根はけっこう「ええやつ」なんだけれども、なんだか自己表現がヘタクソになってきて、いつもムツっとしたような顔をしてしまい、近寄りがたい雰囲気を醸し出してしまうこともある。

損である。

そんなヤツのために、だれが親切にしようと思うんじゃ。

損をしないためにいっしょうけんめい考えて生きてきたくせに、結局この「考える」ことが、トクすることを邪魔しはじめた。

なにをやっとるんじゃ。

 

だから思うのである。

「賢いから考える」のではなくて「バカだから考える」のではないかと。

理屈っぽいのは賢いのではなく、バカなのではないかと。

あまり四の五の考えずだれかに話しかけられたらパアっと顔が明るくなって、とてもうれしそうな顔をしてくれたら、話しかけた方も気持ちが良い。

そういうひとに対しては可愛いというかなんというか、安心できるような感じがあって、少なくとも「害をなそう」とは考えない。

しかしムツっとして、オドオド、ドヨーン、ピキーン、くらーい顔をしているひとには、相手だって警戒心を持つ。

陰湿な雰囲気の人と対峙していたら、機嫌がわるいとイラっとしてきて「もっとイジめてやろうか」とさえ思ってしまうことがある。

損である。

トクをするために賢くなったつもりなのに、結果的には損をしている。

なにをやっとるんじゃ。

アホとちがうんか。

 

「深刻の無駄使い」

トシとってくると、無駄に深刻になっていくんですよね。

よくよく考えたら、深刻になったぐらいでは物事はなんにも解決しないのである。

人生はそんなに甘くないのである。

深刻であるかどうかはものごとの帰結にはなんら影響を与えない。

心配と一緒でまったく無駄な行為である。

心配したぐらいで何かが解決するのであれば、もっと人生はラクだったはずだ。

いらん。

 

警戒する練習はもうそろそろ卒業して、「喜ぶ練習」をしていこうと思う。

それにいちばん良い方法は「断食」なんじゃないかなと最近思っています。

たまに何食か抜いて、ハラペコのフラフラ、卒倒寸前にまでなってみる。

そんなときに食う飯はただの白飯に塩をかけたものでも、涙が出るほどウマイ。

ただのメザシ一本に、大いなる喜びを見出す。

イタリアンだのフレンチだの、そんなしゃらくせえのは、もうどうでも良いのである。

職人の熟練のワザも、秘伝のタレも、そんなしょうもないものはもう、どうでも良いのである。

何食っても、ウマイ!

何食っても喜べる者は、この世で最強の生き物といえる。

最強になる方法は、腹が減っていることである。

そしてようやく、思い出すのであります。

「そうか『喜び』とは、このことであったか」

 

 

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