出たなあ。
いっぱい出た。
掃除を毎日するようになって約200日。
「いらないもの」を日々あつめていって、今日一気に放出しました。
上の写真はけっこうな量に見えるけど、じつは「こまごましたもの」だけに過ぎません。
これにタンスが5つと、ソファがひとつ。
結局トラックで2台ぶんの量になりました。
無論業者さんに頼んだのですが、廃棄処分だけで6万円もかかった。
高っか!
捨てるのに、6万円!
そんなだったら、最初から買わなければよかった。
って、思うよねえー。
さて、この事態はべつに「断捨離」というものに凝った結果ではありません。
日々掃除をしながら不要なものをちょこちょこ捨てていってたぼくの部屋を、両親が見たのです。
必要最低限の家具しかない部屋を見て、両親が言い出したのでした。
「よし、ぜんぶ捨てるっ!」
そう、今回出たトラック2台分の不要物はほとんど両親のものでした。
ぼくの両親はいま80歳前後で、このあたりの世代のひとって「モノは財産である」という概念が強いひとが多いです。
おそらく戦後の貧しい時代を経験したことで、「モノがない」ということに対して一種の恐怖心のようなものがあるのだと思います。
先日亡くなった母の妹さんもそうで、彼女は独り身で都心の5部屋もある大きめのマンションに住んでいましたが、すべての部屋がモノで埋め尽くされていて、誇張ではなく「フトンを敷くスペースしかない」ほどにモノであふれかえっていました。
これはやや極端な気もしないではないですが、おそらく遺伝のようなことなのでしょう、母も似たような傾向があります。
収集癖というのかとくに「捨てる」ことが苦手。
母はとくに食器マニアみたいなところがあって、我が家には膨大な量の食器がありました。
カバンやクツや帽子も、ものすごい量です。
ぼくは基本的に「ひともじぶんも変えようとしない」というポリシーがあるので、両親に「捨てろ」という提案は一切してきませんでした。
ただ毎朝、黙々と掃除をするだけ。
そんな日々を過ごしていくうち、なにも言っていないのに両親は「自動的に」言い出した。
「捨てようかな・・・」
百聞は一見にしかず。
「なにもない空間」の心地よさを知ってしまったら、そうなってしまうのでありますね。
遺伝子に組み込まれた収集癖さえも破壊してしまう「虚空」の強さを思い知るべしでございます。
「モノがたくさんないと落ち着かない」「捨てられない」理由。
それは、こころを「実(じつ)」で満たそうとしているからなのですね。
寂しさや不安という空白は「実」で塗りつぶすことができると錯覚していた。
しかし実際には「実」でこころを満たしても、寂しさや不安はまったく解消されない。
むしろもっともっと「実」を求めるだけになる。
コペルニクス的な逆転で、こころを「虚」で満たしてみると、気がつくことがある。
じつはこころというのは、「虚」もしくは「空(くう)」で満たすほうが、むしろ充実感を強く感じるものなのである。
勘違いをしている人が多いけど、「実=陽」「虚=陰」ではないのです。
ほんとうのところは、「実=陽」、「実=陰」なのであります。
「虚=陰陽中点=ゼロ」なのでありますね。
陰も陽も、「実」。
陰にも陽にも寄らない中庸点のことを「虚」という。
こころと家は、よく似ている。
家の「本質」は、どこにあるか。
外壁でも床でも壁でも窓でも家財道具でも住人でもなく、じつはその家の「なにもない空間」こそが本質なのである。
コップやグラスの中が何かでみっちり詰まっていたらなんの役にも立たないのと同じで、家もモノでみっしりと詰まっていたらそれはもう家の使命感を喪失してしまっている。
なにもない空間があるからこそ、その建造物は「家」といえる。
だから服や家具やグッズなどでみっちり詰まった家なんかより「なにもない家」のほうが、家としての「格」は断然上になる。
家という使命を、しっかり保持しているからである。
こころもそうで、その本質は「なにもないところ」にある。
こころの中がよけいな知識や記憶、希望や願望や予測などで詰まっていたら、それはもう「こころ」とはいえない。
ただの情報倉庫であって、活動的な意味でまったく役に立たないのであります。
あたらしいことを学べないし、自由に動かすこともできないし、どこに記憶を収めたかわからなくなる。
ひとつひとつの情報が密接しているので、ちょっとした刺激ですべての情報に振動が響くこともある。
これを神経過敏という。
こころのなかが「がらん」としていたら、少々のことがあっても響かない。
こころを「虚空」で満たすことによって、こころはその使命感をまっとうできるようになる。
自由な発想、自在な変化が実行しやすくなり、あたらしい情報も入りやすくなる。
「虚空」の必要。
「空白」の必要。
ついつい、このことを忘れてしまうのですよね。
モノという財産で埋め尽くすよりも、虚空という財産で埋め尽くすほうが、きっと豊かなのだと思うのであります。
なにもないことは、最高の贅沢。
モノが減った部屋は、急激に空気が変わるのであります。
すがすがしい秋空のような、澄み切った感覚をおぼえる。
高価な家具よりも、便利な機械よりも、オシャレな服やクツやカバンや絵画よりも、この清澄なる「虚空」に勝る価値はないと思える。
空白の多い家にいると、こころの空白も多くなってくる。
すると、心身も楽になってくる。
虚空こそが財産なり。
空白こそが財産なり。