しばらく禅に凝っていて「欲を減らす」ということをよく考えていました。
最近ピコーンと思ったのが、
「大欲と少欲」
についてです。
仏教とりわけ大乗仏教では「大欲を認める」というのがあるそうです。
欲のなかでも、じぶんの利益ばっかり考えるのを少欲、ひとの利益や社会の益を考えるのが大欲、ということになるようです。
だからまあ、ザックリいうと「じぶんのための欲」はもうすべからく少欲であるということなんだろうと思います。
禅や仏教をチビッと齧ったひとに多いのが、ミニマリストとかですね。
よけいなものは持たない、とか。
「強い向上心なんか捨てて、日々安穏平和に暮らしていければいい」という考え方を持つひともいる。
これらは、ともに「少欲」ということになるんだろうと思います。
だから仏教の本質的なところからいくと、そーゆーのは結局なんにもできてねーじゃねーかーコラー、ということになるんだろうなあ。
欲をすてて、足るを知り、質素で平穏な日々を送る。
そのような姿勢は「つつましい」という装飾語によって、過剰に美化されているところがある。
しかしその実体は結局「じぶんのことしか考えていない」という、少欲の中でも堂々第一位に輝く少欲なのかもしれないですね。
ぼくはチンケな少欲野郎なんだけど、ぼくの周囲にはけっこう「すごい人」がいます。
先輩でも後輩でも、すげー頑張ってる、わりと有名なひともいる。
ふと気がついたのが、彼らに共通することは「欲が強い」ということです。
そしてここが肝心なところで、「少欲ではなく大欲が強い」ということ。
「お金儲けがしたい」ではなく、「社会を変えたい」「業界を変えたい」という、大きな欲を持っているんですね。
どうして彼らはいつも元気なんだろう、エネルギッシュなんだろう。
その理由はわりとかんたんで、「大欲が強い」ということだったのだと思います。
欲を捨ててしまえば、必要なものが減って、そうすればそんなに頑張って働かなくていい。
そしたら生活はラクになって、万々歳じゃないか。
ぼくはつい先日まで、そのようなことを考えておりました。
ううむ。
これはその、いわゆるひとつの、イッツ・シェイムであります。
ハズカシー!
あられもなく身をヨジりたくなるほど、ハズカチーであります。
いやまあ、そりゃあそうなんだけれども、それでラクになって喜んでんのは自分だけじゃん。
それ、少欲じゃん!
っていう。
「大欲は無欲に通ず」
というコトバもあるそうです。
つまり巨大無尽の大欲を持てば、それはもう無欲とほぼ同等である、という。
じぶんがしあわせになるためではなく、社会とか世界とかがしあわせになれる道をかんがえる。
そうすると、必然的に無欲と同じ境地に至るという。
そうなんだろうなあと思った。
身の回りを見渡してみると、社会や業界や世界という「巨視」を持っているひとはみな、ある意味で無欲ともいえる。
会社員でさえそうで、じぶんの給料や出世のことばっかり考えているひとよりも、「会社の経営」「会社のありかた」のことを考えているひとのほうが、無欲である。
あまりこまかいことを、ゴジャゴジャ言わんのであります。
いつもけっこう、元気なのであります。
こまかいことをゴジャゴジャぬかして神経質に悩み、じぶんが神経質であることにも悩み、しばしばうすぐらいことをブツブツと、ぜんざいを煮詰めたみたいにプクプクホザいてるやつは(ぼくのことだけど)、巨視がなく少欲の権化となっておーる。
そして弱いことは繊細で、繊細は悪いことではないなどと、じぶんのキズをナメナメしておーる。
しかしこーゆーのは畢竟「つつましさ」とか「清貧」とかいう、肌触りのいい、しかしヌメついた気色の悪い装飾語に踊らされて、けっきょくはてめえのことしか、考えておらんのであります。
そんな弱っちい情けないやつが、幸せになれるわきゃーなかろーたいね。
この、ふうけもんが。
と、突如のエセ佐賀弁で思うのでありました。
とはいうものの、そこそこ元気じゃないと、大欲は持てない。
そして大欲を持てば、元気になる。
つまり「ええループ」でありますね。
いっぽう、元気がないと、少欲ばかり持つようになる。
少欲を持てば、元気はなくなる。
この無限ループの鎖をバチコーンとぶった切るには、まず大欲を「持ってみる」ところから、はじまるのかもしれないですね。
幸福のために自らを変えるのではなく、
世界を変えるために自らを変えよ。
みたいな。