汚れていたのは、わたしの心

カラダはココロを映し出す鏡という。

そこで最近、もしかして・・・と思うことがあります。

 

毎日掃除をするようになって、もうめんどくさいからいちいち数えるのを忘れてしまったけど、すくなくとも200日は超えていると思います。

掃除を続けることで変化したことはいくつかあって、その白眉はパニック発作がほとんど出なくなったことです。

これにより、パニック障害にともなう外出恐怖も、徐々に軟化してきています。

 

それは良かったのですが、全然別件であまり良くない変化もあります。

全体的に、アレルギー反応が強くなっている。

 

もともと弱いハウスダストアレルギーがあったものの、それほど強い反応はありませんでした。

しかし最近は、やや強い症状が出ることが多くなっています。

ときどき胸が苦しくなることがあって、弱い喘息のような症状が出るのです。

咳はあまり出ませんが呼吸にともなう擦過音があり、黄色いタンが出る。

天気が良いときは落ち着いていますが、この梅雨どきで湿気が多いと、症状が悪化します。

とくにカビくさい匂いを嗅ぐと、てきめんに症状が悪化する。

 

また、蚊に刺されたとき、とてもひどい腫れ方をするようにもなりました。

もともとは蚊に刺されてもまったく腫れないことさえあり、腫れても1時間もすれば跡形もなく消えてしまうことが多かったです。

しかし最近はびっくりするぐらい大きく腫れて、「しこり」のようなものもでき、水ぶくれになり、膿が出て、1週間も2週間も腫れも膿も引かない。痒みもとても強いです。

いわゆる「遅延型」の反応を示すようになっているのでした。

 

そこでこの原因について、「どのような生活の変化があったのか」ということをまず考えていました。

お酒をやめたとか、掃除を毎日するようになったとか、座禅が日課になったとか、少食になったとか、いろいろあります。

しかし、これらの「ぼくの行動の変化」というものたちは、「体質の変化」には、強く関与しているとは考えにくいのです。

清潔になったぶん、そのようなアレルギー的反応はむしろ低減してもおかしくないはずである。

しかし実態はその逆、アレルギー反応が強化されている。

 

このことについては、「清潔になりすぎたから」という可能性も、ないではない。

しかしこの程度で清潔すぎるというのであれば、それこそ禅寺なんかはどうなるんだ、という話になる。

確かに掃除は毎日しているが、とうてい完璧というわけではなく、これをして清潔すぎるというのは、あまりにも乱暴すぎる考えである。

それよりもまだ、「誤った掃除方法でむしろ不潔になっている」というほうが可能性は高いように思う。

 

 

 

……みたいな話ではない、ような気がした。

ぼくは理屈ぽいから、ついこのような演繹的な考え方をしてしまうけど、見落としているところがある。

変わったのは、ぼくの行動だけではない。

ぼくの「こころ」も、おおきく変わったのであります。

 

もともとは「どちらかといえばきれい好き」ぐらいなもので、油断すると1週間も2週間も掃除をしないときもありました。

汚れやニオイについてはけっこう鷹揚で、あまり神経質に除去しようとは考えませんでした。

しかしいまから200日ほど前から、ぼくはなぜか、無性に掃除をしたくなりました。

「行動」を起こす前に、ぼくの「こころ」が、まず変化していたのです。

 

どう変化していたか。

「排除的心情」というものが、ぼくのこころの中に生まれていたのでした。

異物、不要なもの、余計なもの、醜いもの、邪魔なもの。

そういったものを「排除したい」という、強い思いを抱いていたのでした。

以前はまったく気にならなかった部屋の隅のちょっとしたホコリでさえ、神経質に除去するようになりました。

掃除という「行動」そのものには、おそらくなんの問題もなく、むしろ良いことだろうとは思います。

肝心なのは、どのような気持ちでその行動を行っていたのか。

行動の「原因」が、どのような容貌をしていたのか、ということころです。

 

長年パニック障害や外出恐怖という不具合を抱え、ぼくのこころの中に「不具合を排斥したい」という強い思いが生まれていたのだと思います。

「不具合を排斥したい」——この思いに至る世界観。

この世界観において、ぼくは自分の不具合を「本来ぼくには属していないものである」という定義をしていたということです。

「自分から」「出せば」治る、そのような認識を持っていたがゆえに、「出したい」という欲求を持った。

この欲求が蓄積し、暴発寸前になったとき、ぼくは本能的に「掃除」を始めたのだと思います。

つまり、ぼくは自分の不具合を「ゴミやホコリ、汚れ」に代理させて、それらを逐一、神経質に排除することで溜飲を下げていたのかもしれません。

掃除を完璧に行えば、おのれの不具合も一掃されたような「気がして」、爽快感をおぼえる。

これがストレス解消となり、さまざまな不具合が低減していった(ような感覚をおぼえた)のかもしれません。

 

掃除をしてストレス解消……までなら、まあ良かったのです。

しかしおのれの心のなかをよくよく観察してみると、なんともおそるべき「汚れ」が生まれていました。

家はきれいになったかもしれないが、じつはこころが、かえって汚れていた。

汚れや不潔を「憎み」「おそれる」という、おおいなる汚れを持ち始めていたのです。

本来ぼくが持っていなかった汚れを、新規に所持するようになっていたのでした。

 

忌み、嫌う。

この感情は、必ずしも不要なものではありませんが、多すぎると問題を引き起こす。

ぼくはじぶんで、掃除は毎日するが、汚れを忌み嫌うような醜いココロにはならないでおこうと「律して」いたつもりでした。

しかしそれは全然、うまくいっていませんでした。

日に日に、すこしづつ、ぼくのこころは汚れていきました。

部屋が気づかないうちに汚れていくように、こころも気づかないうちに汚れていくのですね……。

 

風呂場のカビとりをしているときに、こんな言葉がココロに浮かんでいました。

 

駆逐してやる

 

そこでぼくは、気がついた。

ぼくは家を掃除しなから、こころをどんどん、汚していってしまっていたのです!

「駆逐する」だなんて、そんな狭隘で臆病な心境になるぐらいなら、掃除などせぬほうがマシだ。

いくら家がきれいでも、こころが汚かったら、それは完全なる本末転倒である。

まだ逆のほうが、本来的である。

 

家をきれいにしたからといって、こころがきれいになるわけではない。

家をきれいにしたからといって、こころが汚れるわけでもない。

そこに一対一の因果があるわけではない。

これはぼくが抱えている、本質的な「ケガレ」である。

じぶんが「定義」した「正義」を「絶対」と信じる、とてもとてもおろしい、おおいなるゲカレである。

この原初的なケガレが、日々の掃除を通じて、たまたま顔を出しただけである。

汚れも、ホコリも、それらは本来ただの「モノ」である。

そこに「こわい」「きたない」というシールを貼るから、そうなってしまう。

そしてその汚れも、ホコリも、本来はぜんぶ「じぶんの行動」の結果であるから、決して汚れやホコリが悪いわけではない。

汚れにしろ、ホコリにしろ、菌にしろ、ウィルスにしろ、彼らにぼくを害する「意図」はない。

しかるに「駆逐してやる」などという、あたかも敵味方のような幼稚な二元対立構造を妄想してそれに没頭し、怒りや恨みのような感情を「じぶんで」生み出している。

これこそが、まさに「ケガレ」である。

家ではなく、ぼくのこころが、いちばん汚れていたのである。

 

このような「こころの拒否反応」が、からだに現れたのではないかと思うのです。

異物を排除、排斥、駆逐しようという「過剰な」こころのエネルギーが、からだにもそのような反応を促したような気がするのですよね。

そう、過剰。

掃除をするということは、汚れを忌み嫌い、排除駆逐するということではない。

それぞれを「あるべき場所」に、かえしてあげるというだけのことである。

掃除も本来は、ただの整理整頓にすぎない。

 

清濁併せ呑むこころを、ぼくは失いかけていたようです。

きたないものも、よごれたものも、飲みこんでしまえ。

きたないものも、よごれたものも、友として、わがちからとなせ。

排除排斥駆逐が生み出すのは、いつも孤立だけですからね。

最強原理は、敵とも友達になってしまうことである。

 

 

  • ぽぽんた より:

    てらさんが
    よく ここで おつかいの 
    言葉

    天地自然

    そこ に
    みな
    やすらかに
     
    かえって いただけたら

    いいのかなあ
    なんて
    おもったり します …

    わたし も
    わたしのもの も
    なく

    人 も 物 も

    なにも  か も

    みたいな ね (_ _)*

    • TERA より:

      まあ最後には、全員天地自然にかえっていくんですけどね。
      えらい人も、クズ人間も、いぬも、ねこも、うしも、むしも。

      すべてのいきものが、しあせでありますように。

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