ヤバいなあ。
ヤバいほど面白い本を見つけてしまった。
投影された宇宙 – ホログラフィック・ユニヴァースへの招待 –
まだ読みかけなんだけれども、つまりはようするに「この宇宙はホログラムに似ている」ということを言っている。
ホログラムというのは特殊な光線を特殊なフィルムに当てることでその場所にまるでその実体があるかのように立体が浮き出てくるアレのことである。
ホログラムが浮いている空間には、当然なにもない。
人間の記憶とか感覚とか神経のはたらきとか、そんなのがどうもホログラムみたいなんだそうで、そのような認知のはたらきがホログラム・システムに準拠していると仮定すると、いろんな生理学的・医学的な矛盾点が解消されるのだそうである。
そして、こともあろうか、この宇宙じたいがホログラムの投影ではないかとする物理学者もいる。
最近発達してきた量子力学の「どうしても乗り越えられない一線」が、このホログラフィック理論をあてはめてみると超えられる可能性が出てくるのだそうである。
むろんこの理論は仮説であって、じっさいにこの世界や人間存在がホログラムであると実証されたわけではない。
だけどこの理論はよく妄想主体のオカルトやスピリチュアリズムに取り込まれて、自説の強化のために使われたりもしている。
どうやら宇宙物理学というのはかなり難しいから、じぶんの理解能力の閾値を超えたときついオカルト的妄想をもって解釈を試みてしまうことが多いようであります。
だからちゃんと眉毛にツバつけてから接しないと、すごくアブナイ世界ではある。
ぼくもご多分に漏れずアタマが弱いほうなので、ホログラフィック宇宙論をシッカリとは理解できない。
だけど・・・というか、だから、というべきなのか、
「むっちゃオモロいやんけ!」
と思ってしまった。
ようするに「この世は幻である」というのである。
これはまさに映画「マトリックス」のような世界観であって、ぼくたちが日々感じていることはすべて脳神経の錯覚というか、電気的信号に過ぎない可能性がある、というのである。
ホログラムのもとであるフィルムには「光のもや」のようなものしかないのと同樣、実際の「この世」というのは実体らしきものはないただの波紋に過ぎないようなものかもしれない。
オオゥ・・・・・ッ。
アオオオウフ・・・ッ。
まるで射精する外国人のような声を上げるしかないのであるなあ。
オ・オ・オ・オウーッフ。
ひとしきり射精をしたあとで(してないけども)思い出したのは、これって仏教の思想と似ているな、ということだった。
仏教には「唯識」という考え方があり、この世のあらゆるものごとは「こころが生み出した」ものに過ぎず、そこには実体など存在していないというのである。
よって「色即是空」であり、「空即是色」である。
「唯識」ということをはじめてまじめに調べてみたときは、精液ではなくアタマの中にネコが出てきて、にゃあにゃあ言っていた。
簡潔にいうと、
「おまえ、なにゆーとーねん」
みたいなことで、一切理解ができなかった。
しかしこの「唯識」ということを「ホログラフィック・システム」というふうに置き換えて考えてみると、なんと、ネコが出てこないで済む。
ホログラムフィルムというのは一風変わった特性をしていて、たとえばそのフィルムを半分に切って片方だけを使用しても、解像度は落ちるがホログラム立体映像自体はちゃんと表示されるのだそうである。
つまりホログラム・フィルムはどの部分を任意に抽出しても全体の情報がほぼ含まれているということになる。
これはまるで錬金術系思想の「一にして全、全にして一」であり、仏教・東洋思想系の「一念三千」という考えとも大変よく似ている。
そういえば密教系の曼荼羅は、遠目に見ればホログラム・フィルムに似ていなくもない。
もし、万が一であるが、「この世の全存在はホログラムである」としたら、たいへんおそろしいことで、いわゆる「神通力」ということにさえも説明がついてしまう。
この世は決定された硬い実体のある世界ではなく、わが心が生み出した「投影」に過ぎない。
とすると、「心のほうを変えれば、世界が変わる」ということは、当然の帰結となる。
だから、とつぜん火だるまになって空中に浮きニコニコしていたとしても、ホログラフィック宇宙論からすれば、なにも問題がないことになる。
そして「アカシック・レコード」という、常識的に考えれば荒唐無稽としかいいようがない「全世界の記憶が存在する領域」ということも、あながち妄想ではなくなってしまう。
そのあたりに転がっている石ころにさえ「全世界の情報」が詰まっているということは、ホログラフィック宇宙論からすればべつに荒唐無稽ではなくなってしまうのである。
不可解なのは、このホログラフィック宇宙論に限らず科学領域というのは稀に宗教・秘教・仏教思想と似たようなことを言い出す、ということである。
量子論についてもその一部は3000年以上前にインドで予見されていたともいう。
これは偶然の一致なのか、それとも最近の科学者が哲学思想にインスパイアされた結果なのか、それとも——ホログラフィック・システムの現象の一種なのか。
もしこのような世界観を導入してしまったら、気が狂ってしまって、正常な日常生活を送れなくなってしまうのではないか。
なーんて思ったけど、むしろ「逆」のような気もした。
この世界はまぼろしのようなものであり、仮想現実のようなものである。
そうこころの中で言ってみたら、ふしぎなことが起こる。
なんと、気が楽になるんだなあ。
あの悩みも、あの心配も、このくるしみも、ぜーんぶぜーんぶ幻想。
幻想のうえで稼働しているこころの働きもまた、ただの幻想にすぎないのである。
幻想なんだから、そんなものに、いちいち親切に付き合ってやんなくてもいーのである。
むかしのことは過去のことであり、記憶=電気信号に過ぎないものである。
そして先のことなど、まさに想像=電気信号の一種である。
そんな実体のない「もや」のような、頼りない、ふにゃふにゃなものごとに感情を振り回されるなど、むしろそっちのほうが、どまぬけで、アタマがどうかしているともいえる。
この世界は、わたしが生み出している幻想である。
もしそうならば、この世の「あるじ」は、ほかでもない、わたし自身である。
つまりは、天上天下唯我独尊である。
わたしが「よい」と思わない限り、いくら努力をしたって、勉強したって、我慢したって、社会を変えたって、この世もわたしも、まったくいっさい、よくならない。
しかし、わたしが「よし」とすれば、全宇宙はかならず「よし」となるのである。
もし努力するとするならば、「いま、よし」と念ずる練習なのかもしれないのであるね。
・・・と考えたら、気が楽になるなあ。
がんばるのも良いが、がんばるまえに、まず足元を見よ。みたいな。
ホログラムのむこう側にある「実体」を見るためにまず必要なことは、ホログラムを消すことである。
ホログラムは「波の位相干渉」によって発生する。
こころに「波紋」がない状態—「明鏡止水」の状態にすれば、ホログラムは消えて、そこに「実体=空」があらわれるのかもしれない。
この本は、理系物理学の科学の本としてではなく、「こころの癒やしの本」として読むほうが、むしろ楽しく読めるかもしれない。