いま、激しく反省をしているところである。
「ぼくは、疑念が強すぎる」
大嫌いなCMがある。
それは概ね、元気そうな実年女優や俳優が登場するもので、
「ワタシはコレを飲んでいるので元気なのですよ」
という健康食品系のアレである。
薬事法の関係から画面の隅のほうには「※ 効果には個人差があります」とは申し訳程度に記載してある。
しかしその文字の大きさは極小で、おそらくターゲットとなる老人には読めないであろう大きさだ。
このたぐいのCMを見ると、ぼくはまず
「チッ」
と舌打ちをし、そして
「ケッ」
と軽蔑をしつつチャンネルをかえるのである。
悪意を感じる。
スッポンのエキスだの、ニンニクのエキスだの、ケールの絞り汁だの、そんなものを食ったり飲んだりしたぐらいで元気なるわきゃーなかろーも。
あのひとたちが元気なのは、そういうことではなく、日々の節制や鍛錬の賜物のはずである。
こんなもの、詐欺じゃねーか!
しかしぼくは最近、180度意見が変わりつつある。
「いいや。あれはもしかして、善意のカタマリなのではないか」
プラシーボ、という、まるで魔法のような薬効がある。
これは正当な医学界でもその存在を認められているもので、患者が「その薬は本物である」と信じて疑わなければ、仮にただの生理食塩水だったとしても本物の薬と同等の効果を示すというものである。
実際にあった話で、画期的な新薬を末期がんで苦しんでいる患者に投与したことがあった。
するとその患者は、みるみる改善していき、とうとうガンが治ってしまったそうなのである。
当然医者も患者も小躍りして喜んだわけだけれども、ある日製薬会社から連絡が入った。
「流通の手違いで、先日送った薬はただの砂糖水でした」
このことを患者に告げると、なんということか、ガンが再発してしまった……。
にわかには信じがたい話だけれども、これはどうやら、実話のようである。
ここまで極端なことでなくても、喘息の患者に新薬と称して投与した薬が実はただの栄養剤であっても発作が止まり、逆に本物の薬であってもニセモノだといって投与すればあまり効果が出ないということはよくあるそうである。
このあたりのことが本当だとしたら、もはや「心身」というのは分割して考えるべきものではなく、シームレスな一体のオブジェクトとして認知すべきであるということになる。
とにかく「効くと信じて疑わなければ」、たとえ塩水でも画期的な新薬並の効果を発動するのである。
ある実験では「白血球を増やす」というイメージをさせただけでも、実際に白血球の数が大幅に増大したという報告もある。
また有名な「軟酥の法」というイメージ療法では、頭の上に鶏卵大の「魔法の薬」が乗っていると観想し、それが体熱で徐々に溶けていき、それが患部に浸透していって悪い部分を悉く駆逐していく様をイメージすることで、実際に治ってしまうという話がある。
原始的なシャーマニズム文化では、一種の手品であるが、患者の腹部に指を突っ込んだように見せて、じつは隠しておいた鶏の内蔵をあたかも患者の腹の中のわるい部分を抜き出したかのように思わせる儀式がある。そうすると、いったいどういうわけかはわからないのだけれども、それで治ってしまう人がたくさんいるのだそうだ。
案外身近に、そのような経験がある人がいた。
それはぼくの、親父である。
四国の田舎にあるさびれたお寺に「眼病井戸」という涸れ井戸がある。
結膜炎やものもらいなどの眼病を患ったとき、「あずき」を悪い方の目の瞼ではさみ、それを涸れ井戸の中にポトリと落とすのである。
井戸の水で洗うとかではなく、目に挟んだあずき豆を、井戸に落とすだけである。
そうすれば眼病が治るというのであるが、普通に考えてそんな行為に効果があるわけがないのであって、迷信にもほどがあると言わざるをえない。
しかし実際に、親父も、その友人も、地域全体のひとがそれで「治った」経験があるというのである。
もっともっと身近に、経験者がいた。
それは、ぼくである。
8歳のころ、ぼくはアデノイドの手術をしたのだけれども、どうも処置が甘かったらしく、傷口からバイキンが入って「川崎熱」という病気になった。
これは高熱が続き、最後には失明をするという恐怖の病である。
お医者さんにも失明するであろうと予言をされ、絶望感に苛まれながら入院の日々を過ごしていたころ、母親が言った。
「お寺にいって、おかあさんが祈ってくる。だから絶対に治る。」
母は実際に、徹夜でお祈りをしてくれたのであった。
そうすると、いったいどういうわけなのか、その数日後にぼくは本当に治ってしまったのである。
「そんなわけは、ないんだけどなあ」と、これにはさすがの先生もしきりに首をかしげていいた。
ぼくはほどなく退院し、その後40年以上経つけれども、目には一切不具合はない。
またぼくは幼少のころのある日、家族で海水浴に来ていたとき、はしゃぎすぎて鉄柱で頭をうち頭蓋骨が見えるほどの大怪我をしたことがある。
タクシーを呼び病院へ急行したが、血がいっこうに止まらない。大量出血である。
ぼくは不安でしょうがなく、ぎゃあぎゃあと大泣きをしていたところ、親父がいった。
「泣いていたら、血は止まらんぞ!」
当然であるが、そんなのは、ウソである。
ウソであるが・・・びっくりしてぴたっと泣き止んだところ、ほんとうに血が止まった。
ほかにも些細なことなら、数え切れないぐらいあった。
そんな経験をたくさんしているというのに、ぼくはいつしか「知恵」がつき、それといっしょに「疑い」も持つようになった。
自律神経失調症やパニック障害を患ったときも、ぼくは「物質面」からのアプローチに躍起だった。
さまざまな方法を試したけれども、それぞれの論拠は「肉体方面から精神方面を制御する」ストラクチャばかりで、それはたとえば、骨盤矯正やヨガ、各種薬品などだった。
しかし、なにをやっても、治らなかった。
そこでぼくは「方法が間違っている」と考えた。
試行錯誤は10年にも及び、数え切れないぐらいの方法を試していった。
でも、結局は、治らなかった。
そこで、思うのである。
ぼくに足らなかったのは方法論や知識、自己節制、ましてや体力などではなく、単純に「信じるちから」だったのではないか?
アズキを目に挟んで井戸に落とすだけで、眼病が治ることもあるのである。
母がほとけさまに祈ってくれていると知っただけで、奇病が治ることもあるのである。
「泣き止めば血が止まる」と思っただけで、大量出血が止まることもあるのである。
中途半端に知識を蓄えたことで、ぼくは「こころ」と「からだ」がどんどん分断していき、自身の肉体を「物質のカタマリ」として認識するようになり、結果「シームレスな心身」を完全に喪失してしまったのではないか?
ぼくは10年間の試行錯誤を放棄し、とにかく無心に掃除をするようになった。
また「歩けば治る」ということを信じ、ヒマさえあれば歩き回った。
掃除をすれば、こころもきれいになると信じて、毎朝便器を磨いた。
そうしたら、気がつけば、ぼくは外出恐怖をかなり克服していた。
パニック発作も最近はほとんど出ておらず、出そうになっても止めることができるようになっていた。
心身をコントロールする技術力が身についたのではない。
ぼくの、こころのなかに、こんな「信念」がうまれていたのだ。
「だいじょうぶ」
ぼくを痛めつけていたのは、ぼくの外からやってきた「病」ではなかった。
ぼくの内側で生まれていた「疑念」であった。
あの大嫌いだったCMも、いまとなっては「善意」に見える。
科学的、あるいは医学的理由は、もしかしたら思っているほどの重要事項ではないのかもしれない。
それを摂取するひとに「絶対に効く」ということを伝え、強力に信じさせることも、その実験的薬効と同じぐらい、場合によってはそれ以上に重要なことなのかもしれない。
もしそうならば、元気な有名人に「効きますよ」と言わせ、無邪気な悩めるご老人を「信じさせる」ことは、詐欺ではなくて、むしろ「菩薩行」ともいえる。
そのような商品に、「そんなものは非科学的で、実際に実験でも効果は否定されている。やめたほうがいい、金の無駄遣いだ」などと横槍を挟むのは、善意に見えて、そのじつは「悪魔の所業」ともいえるのかもしれない。それがもしプラシーボだったにせよ、あるひとが「救われる」機会を奪ったからである。
聖書において知恵や知識を「禁断の果実」とするのは、言い得て妙である。
そのようなものが気分だけでなく「物質・現実面」においても救済や安寧を阻害する場合がある。
正しい知恵や知識とは、論理的整合性や客観的事実、指向性のある情報の集積のことを指すのではなく、
「心身はシームレスであり、物質は意識の産物である」
ということを「知っている」ということなのかもしれない。