毎日掃除をするようになって、なんだかんだで1年ぐらいになる。
トラック2台ぶんほどの不要物も捨てて、かなり家のなかに「スペース」が増えた。
結果家は広くなったし、部屋の空気もキレイになった気もする。
とてもよかった、といって差し支えないと思う。
掃除、断捨離、整理整頓は、やはり良いことなのだ。
しかし最近、感じることもある。
無駄のない、合理的で動線がスムーズで、清潔な空間に身を置いていると、まったく予想だにしない「こころの変化」が起こる。
そしてその変化は、必ずしも「良い」とはいえない変化である。
「疲れる」
そうなんである。
とてもきれいな空間は、疲れるのでありました。
「きれいな空間だと落ち着かない」
というひとは、思いの外いるようです。
このことについてネットなんかでは「こころの調子がよくないから散らかっているのが落ち着くのだ」ということを言うひとも多い。
ぼくは最近このことについて、真っ向から「ちがうのではないか」と疑問を呈したいのであります。
「メンタルがおかしいから、散らかっている」
→ これを仮に正しい、とする。
そうしたら、
「散らかっているひとは、メンタルがおかしい」
→ これは、さて、正しいのか?
論理学的に考えて、これは必ずしも正しいとはいえないのではないか。
そして根本的なことであるが、
「メンタルがおかしいから、散らかっている」
→ これじたいが、正しいとはいえない。
部屋が汚く、さんざん散らかっているひとでも、メンタルが正常なひとは多い。
そして、とても部屋をきれいにしているひとでも、メンタルが腐っているひとも多い。
つまり「部屋・家がきれい」ということと、メンタルの状態には、画一的な因果関係など存在していない、ということになる。
きれい・きたないという結果を一種の生存者バイアスをもって見るから、メンタルと清潔整理整頓にはゆるぎない因果があるように思えてしまうだけなのだろう。
そうではなく、もっとも重要なのは、「それを志向したこころの状態」にあるのではないか。
つまり「きれいにしたい!」と思う、そのこころ「そのもの」に、なんらかの問題が存在しているのではないか。
唐突に断捨離に目覚め、ばかすかモノを捨てまくり、毎日掃除という行動を起こす。
じぶんの周囲には、無駄なものは一切置いておきたくない。
「なぜ、それをしたいと思うのですか?」
「自」と「他」を分断したい、切り離したいというネガティブな希求があるのではないか。
整理整頓や清潔も、そこに「強迫」が存在した時点で、それはもはや病的行動である。
ネットなんかで見かける「毎日便所掃除をしないと運が悪くなる」というようなスピリチュアリズム風の言説は、はっきりいって完全なる強迫性障害の一種であって、病人のたわごとである。
んなわけあるか。
ふつうに客観的に考えて、そんな「因果」は「ありえない」。
因果があるとすれば「汚いのがゆるせない・落ち着かない」という、その人自身の脅迫的心情にある。
清潔であることや、整理整頓されていることは、むろん「悪いことではない」し「良いことである」。
しかし「清潔・整理整頓を常にしていなければならない」というのは、あきらかなる間違いである。
知り合いに「外食は汚いからイヤだ」という人がいる。
だれだか知らないひとが舐め回した皿やコップを使ったり、どんな状態かもわからないキッチンで料理されたものなど食えるか、というのである。
そこで、なるほどそんなことを言う彼女の家のキッチンはさぞかし清潔なのであろうと想像し、お邪魔してみると、愕然とするのである。
たしかに、見た目はキレイにしている。
部屋もとてもキレイに整理整頓されている。
しかしキッチンシンクの死角(シンクの「ヘリ」の下側など)を見れば、そこには黒カビがビッシリ生えていた。
排水溝の中もカビだらけであり、コンロの上蓋を空けてみれば、そこに大量の食べかす・油かすが溜まっていた。
さて、外食と、家で作った食べ物、どちらが清潔か。
ぼくは思うに、こんなにカビが生えているキッチンで作られるものならば、外食のほうがまだ清潔なのではないか。
飲食店はもし食中毒なんかが出たら倒産の一大事だから、多くの店ではきちんと掃除や除菌をしている(なかには無茶苦茶な店もあるが)。
すくなくとも、見えないところに多くのカビがあるキッチンで作られた食べ物は、清潔とは言い難い。
つまり、彼女が言う「汚い」は、強迫なのである。
判断基準は客観的なキレイ・汚いではなく、あくまで「じぶんの主観の範疇での思い込み」だけ。
潔癖症に多い価値判断、
「わたし以外は、みんな不潔」
んなわけあるか。
おまえも、ふつうに、汚いんじゃ。
汚いからメンタルがおかしくなるのではないし、汚くするとメンタルがおかしくなるのではない。
メンタルがおかしいから、キレイにしたいと思うのである。
つまりは、代償行為に過ぎないのであった。
だから、疲れるのである。
キレイにしたら、多少とはいえ、汚してはいけないような気がする。
食べかすなどを、床や机に落としてはいけないような気がする。
子どもや来客が汚したり散らかしたら、イラッとする。
疲れているときでも、使ったものは必ず元あったところに戻しに行かないと「だめな気がする」。
些細なことではあるが、こんなことを毎日繰り返していると、疲れる。
心臓が、つかれるのである。
ジーンズが楽なのは、その形状や材質ではない。
物理的な楽さなら、まちがいなくトラウザーやスラックスのほうに軍配が上がる。
強靭性は劣るものの、通気性や柔軟性においてはジーンズの何倍も性能が上である。
「丈夫だし、汚しても、やぶれても、シワになってもかまわない」というワイルドさが、ジーンズを「楽」だと感じさせているだけだ。
「汚いのは、ゆるせない」という人と、
「汚なくても、かまわない」とい人。
そのどちらが、メンタル的に正常といえるだろうか。
最近断捨離やミニマリストということによくフォーカスが当たる。
このことについて「行き過ぎた物質社会・消費経済社会への人類の辟易である」と考えるひともいる。
でもぼくは、ちがうと思う。
「脅迫的なひとが増えた」
だけのような気がするのであります。
「なぜ、それをしたいのか」
そこに、自分自身の声を聞くヒントが隠されているように思う。
掃除したから、何事かが好転するのではない。
掃除や断捨離、ミニマリストに心惹かれる、その心情にこそ、自分自身のこころの「秘密」がある。