答えは見つけるものではなく、出すものである。

10年以上パニック障害で悩まされ続けたことは良い経験ではあったが、一点、反省していることがある。

それは闘病中の僕が長い間、答えは「探して、見つける」ものだと勘違いをしていたことである。

 

答えは「探して、見つける」ものではなく「導き、出す」ものであった。

 

勘違いをしていたから、ネットや本を漁るように読んだ。

どこかに画期的な方法論があるのではないかと夢想妄想し、探し回り、だれかが良い、効いたということがあれば逐一試していった。

つまり僕は、「治療法のトレジャーハンター」だった。

 

ど阿呆がすることである。

クズ人間がすることである。

答えは「見つける」のではなく「出す」ものなのであった。

これはパニック障害の治療方法に関わらず「あらゆること、すべてのこと」について、そうだった。

 

答えを「見つけるものである」と定義することには、以下のデメリットがある。

・手当たりしだいに方法論を試すという暴挙により膨大な時間を損失する。

・試した方法論が不正解であったことが続くと、世界を疑うようになる。

・また同時に、自分を疑うようになる。

・自信を喪失し、

・自己肯定感が低減し、

・もう治らないのではないかと絶望し、

・不安が増大する。

 

結局、「探す」という行為に没頭することにより、なくそうとしてた不安がかえって増大し、もともと持っていなかった新たな「疑念」まで持つようになる。

これを一言で言えば「こころが汚れた」のである。

ようするに、「答えは見つけるもの」という思想は、アルゴリズムがクソなんである。

 

 

答えなど、どこにも存在していない。

 

 

この至極当然のことを「知らなかった」ことこそが、最大の原因であった。

答えなど、ハナからどこにも存在していないのである。

なぜならば、答えは「出す」ものだからである。

存在していないものを探し回るから、いつまでたっても見つからなかった。

見つかるわけがないものを探しまわって、「私は探す能力に欠けている」などと自己卑下をしてみたり、果ては医者や科学者を恨んだりする。

なにをやっとるんじゃ。

 

「見つけた」答えは、だれかが「出した」ものである。

だからその答えは、必ずしも別のひとに適用されるとは限らない。

むしろ、適用されないことのほうが圧倒的に多い。

参考になることはあったとしても、決して解決策にはならないのである。

そしてたいへんに残念なことであるが、「参考にする」ためには「答えを出す能力」が不可欠である。

情報を整理し、優先順位をつけ、取捨選択し、統合・結合・連結し、「創造する」ちからが必須である。

このあたりの能力が欠如していると、いつまでたっても「答え」は出てこない。

ただやみくもに、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる的に、逐次的に試行錯誤を繰り返すだけで、結局は徒労に終わる。

 

まことに残酷ではあるが、実際には、下手な鉄砲は「当たらない」のである。

だから軍人さんは日々練習をしているのである。

そんな無謀なことを試そうと目論む、その心の状態こそが、じつはこころの不調の原因のひとつでもあった。

なにも整理ができておらず、妄想と希望に取り憑かれて、無策で盲目になっている。

落ち着きを完全に喪失しているから、心身も不安定になっていた。

 

話は変わるが、教師の仕事はなにか、という問がある。

じつは、正解を教えるのが仕事ではないそうである。

教師の仕事はすでに存在する正解を生徒に伝えることではなく、生徒の「正解を導き出すちから」を鍛えてあげることこそが、本来的な仕事なのだそうだ。

しかし現実には、とくに義務教育の現場において、そうではなくなっていた時期が長かった。

効率化のために「正解を覚えさせる」ことに軸足が移動してしまった。

だから生徒は「答えはどこかにある」というような勘違いをするようになってしまったのかもしれない。

 

さておき、「正解を導き出す力」を強化するのには、うってつけのトレーニングがあるらしい。

それが「掃除と整理整頓」なんだそうである。

正解を導き出すためには、自身にインプットした情報をまず「整理」しなければならない。

そして、それらに優先順位をつけ、優先順位の低いものや、不要なものは「捨てて」しまう必要もある。

すべての情報をヒエラルキーなしに同時並列処理を行えば、どんなに優秀な脳の持ち主でも気が狂う。

それを防ぐために、整理整頓と優先順位をつけ、インデックスを生成する必要がある。

情報の整理整頓は、モノの整理整頓と、概念的にはまったく同じである。

情報の取捨選択は、モノの取捨選択と、概念的にはまったく同じである。

だから、掃除と整理整頓を日々習慣化することによって、情報整理能力も向上するというのである。

これにはぼくも、実感がある。

掃除を習慣化するようになってから、パニック発作の回数は激減していった。

 

モノの整理と取捨選択ができない者には、情報の取捨選択もできないのかもしれない。

ただし勘違いしてはならないのは、部屋や机が乱雑である人が、必ずしも情報整理が苦手とは限らない、ということだ。

部屋の状態という「結果」には理由があって、

・能力がないために乱雑である

という場合と、

・能力はあるが、それ以外のことにリソースを使用しているため部屋の整理をしていない

という場合がある。

すなわち、やろうと思えば人一倍整理整頓ができるが、事情によりやっていない、という場合がある。

また一種の天才肌で、一般的な視覚情報には頼らず情報整理ができるという人もいる。

いっぽう、一見とてもキレイにしているようでも、じつは整理方法がむちゃくちゃだという場合がある(ぼくがそうだった)。

見た目はキレイだが、引き出しや押し入れの中はグッチャグチャ、というひともいる。

必ずしも結果だけをもってその人の情報処理能力を判断することは、不能である。

 

「答えが出せない」人。

「答えは見つけるものだ」と勘違いをしてしまった人。

そういう人は、情報処理能力が低下している可能性が高い。

そういう人には「掃除と整理整頓」が効力を発揮するようである。

しかしこれも皮肉なもので、答えを「見つける」ものだと思っている人は、掃除と整理整頓が大嫌い、あるいは苦手、あるいは下手くそだという人が多い。

筋力が強いひとは筋トレをする必要がないように、掃除や整理整頓が苦手な人にこそ、掃除や整理整頓が必要なのかもしれない。

 

最近はインターネットという便利なものができたおかげで「答えは見つけるもの」と考える人が増えていっているようである。

でもこれも、勘違いしてはならないだろう。

インターネットが悪いのではない。

「答えは、出すものである」ということを知っている人にとっては、インターネットは害をなすどころか、有益なものになる。

「答えは、見つけるものである」と思い込んでいる人にとっては、インターネットは害悪になる。

なんでもそうだが、つまりは諸刃の剣であるね。

 

 

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