遅刻をゆるすということ

中学生ぐらいから不思議でならないことがあって正直腹を立てていたことがあるんだけれども、最近ちょっと納得しつつある。

ぼくはずっとこう思って生きてきた、

遅刻すんなボケ

そんな「怒り」を抱えながら生きてきた。

 

だれかと待ち合わせをしたりすると、必ず遅れてくるのである。

特定の誰かではなく、彼らのほとんどが、である。

たとえば17:00に駅の西口で、というような待ち合わせをしたら、ぼくは当然だと思うのだけれども、16:45までにはその場所に到達しているべきであると考えている。

それは何も商談などの重要なことでなく、それがたとえ飲み会であったとしても、である。

というか、もっといえば飲み会こそそうあるべきである、とさえ考えている。

というのも、飲み会には幹事役をつとめる人がいたりして、集合時間に予定人数が揃っていないと彼はとてもヤキモキするのである。

会費計算をしているからもし誰かが欠席して予約人数に到達しなければ、一人頭の会費を増額せざるをえない。

そうなれば、むろん幹事が悪いわけではないのだけれども、参加者に頭を下げて増額を依頼するのは幹事の役目になることもある。少なくとも、多少は気をつかう。

だから開始時にもれなく全員が揃っていれば、幹事役の人も安心して酒が飲めるというものであるが、いったい何をどう考えているのか、「遅刻するひと」は連絡もよこさずに、ふつうに30分も遅れてきたりするのである。

ぼくは冗談抜きで、そういう人を心底軽蔑していた。

それが女性でどんなに美人で可愛くても、虫ぐらいにしか思えない。

決してだらしがないとか、いい加減であることに対して怒っているのではない。

それはその人の性分であり、ぼくはひとの性分まで矯正すべきとは思わない。

「他者への思いやりが足りない」ということに怒っているのである。

すこしでも待っている人の気持ちを考えれば、たとえ1分といえど無連絡で遅れていくなど、できるはずもないのである。

 

そんなに難しい話ではないからこそ、腹が立つというのもある。

たとえば家から出るとして、出発までの準備時間、家から駅までかかる時間、駅から駅までの移動時間などを「単純合計」し逆算するだけで、出発時間はおのずと決まるのである。

小学生の低学年でもできる計算である。

なにも、ミリ秒単位で計算する必要はない。

たとえば家から駅まで8分かかるとすると、それを「8分」と計算せず、まるめて「10分」とすれば良いだけのことである。

各種の「実質所要時間」に数分を加算して単純計算するだけで、ほぼ間違いなく集合時間の数分前には目的地に到達できるための時刻が算出されるのである。

むろん、急に腹痛になったとか、電車が動いていなかったなど、不測の事態はある。

なにもぼくは、その不測の事態によるロスタイムまで計算せよとは思わない。

超能力者でもあるまいし、そんなことはどだい無理だからである。

だから不測の事態で遅刻をしたのなら、それは当然「仕方ないね」であり、もっといえば「大変だったね」とねぎらうものである。

最近もっと腹立たしいのが、スマホなどでいくらでも事前連絡ができるというのがある。

昔は携帯電話などなかったから、家を出遅れたら、集合まで「どうしようもない」ところがあった。

しかし今では、LINEでもメールでも電話でもよい、丁寧でなくともよい、謝罪もなくてよい、たった一言「何分遅れる」と伝えれば、それで万事は解決である。

ほんの数分を計算に入れる、あるいは不測の事態の場合は連絡を入れる、たったこの2つの簡便な方法論すら利用しようとしないその者の行動原理はまったくもって不可解であり、またそれを行わないのは知能が遅れているからではなく、単純に「待っている人の心情を慮れない」という「非情の精神」のためであると推測したことで、俄然「怒り」が湧くのであった。

ぼくはバカでも能天気でもルーズでも臆病でも空気が読めなくても無能でもブスでもハゲでもデブでも病人でも怒ることは決してないが、思いやりのない行動には憤怒する者である。

 

さて、最近ぼくは認識を改めたのであった。

ぼくの怒りは「遅刻は非情のなせるわざ」という仮説に基づくものである。

はて、どうやら、この仮説は間違っている可能性があるようである。

すなわち「遅刻は病気だ」という可能性があるそうなのである。

相手に対する思いやりの心の欠如によるものではなくて、単純に「そういう病気」である可能性。

考えてみれば、たしかにそうかもしれない。

よく遅刻してくる人は必ずしも頭がわるいわけではなく、むしろふつうより頭の良いひとさえいる。

彼らが「時間の単純計算ができない」とは、あまり考えられない。

また「思いやりがない」ということについても同様である。

遅刻してくる人がすべて無慈悲で自己中心的な思想をしているかというと、そうとは限らない。

むしろ普段は他者への愛をふんだんに持っている人であっても、遅刻の常習犯であることがある。

このあたりの矛盾については、じつは少し気がついていたところもあったけれども、きちんと考えてみたことはなかったというのが正直なところである。

「遅刻=愛のなさ」という仮説を硬化させ、頑固に受持しつづけていた。

 

病気である。

そう考えると、納得がいく。

たとえば「字が読めない病気」や「文章が読めない病気」というのも存在する。

彼らは決してバカだとか無教養とかではなくて、中には飛び抜けて知的な人もいるそうである。

しかし、なぜか「読めない」。

これはそういう「病気」だからなんだそうだ。

脳の一部に原因があって、どうしても文字や文章を認識できない場合があるそうだ。

遅刻も、その一種である可能性があるらしい。

確かにそうで、あんなに単純な逆算計算すらできないのであれば日常生活に甚大な問題が出るはずである。しかし実際には、遅刻の常習者が決定的な生活破綻に陥っているという話はあまり聞かない。

もしかすると、いわゆる「数」の計算には問題がないが、「時間」に関しては、その数値の多寡への実感が沸かないというのがあるのかもしれない。

じつは、ぼくはそれによく似たことで、「数の大小」がすこし苦手である。

100と1000、1000と10000を、しょっちゅう間違える。

だから、ぼくが絶対にやってはいけない仕事は「経理」である。

「数学」「演算」はわりと得意なほうだが、「算数」がおかしなことが、よくある。

そのかわり、「時間感覚」はけっこう鋭敏で、経過分数や現在時刻などは直感的にある程度わかる。

筆記してしまえば同じ「数字」でも、その数字が持つ性格によって得手不得手があるのかもしれない。

遅刻するひとは、まあ病気というほどではないにせよ、運動が苦手みたいなことで「時間経過を知覚するのが苦手」という特性を持つ可能性があるのかもしれない。

 

そうなると、遅刻する人に「怒る」というのも、かわいそうに思えてくる。

むろんただの無頓着であるとか、誠意が皆無であるとか、愛がないとか、自己中心的であるとかいうのは別として、単純に「苦手」であるならば、これはわりと本人も大変である。

現代において数の計算は計算機やコンピューターがしてくれるからまだ良いとしても、経過時間を知覚する「感覚」だけは、道具や技術ではどうしようもないところがある。

アラームなどを駆使して予防する手もあるが、何かにつけアラームを設定するというのも非情に煩雑であり、あまり現実味がない。

 

そして加えてもうひとつ、ぼくはおそろしいことを知ったのである。

遅刻は第一次大戦後に誕生した

という事実である。

遅刻の誕生」という本によれば、戦後の高度経済成長以前、じつは日本人は全員「遅刻の常習犯」だったらしいのである。

幕末〜明治時代、外国人が経営する工場で働く日本人は、時間通りに行動することがほとんどできなかったらしい。

10時集合、と命令しても、時間通りに来る者はほとんどおらず、30分、1時間遅れてノコノコやってくるのが当然だったそうだ。

資材も時間通りに届かないわ、職人はとつぜんフラっとどこかへ消えて戻ってこないわで、現場は大混乱だった。

これではまったく仕事にならないから外国人の工場主は毎日ブチギレていたのだそうであるが、それが今や「日本人は時間に正確」というのが常識となっている。

その原因は、鉄道の敷設をはじめとした「工業化」からなんだそうだ。

学校などでも時間を守ることを教育し、工場現場でも遅刻を厳罰化していったことにより、日本人は「変化した」そうである。

 

となると、である。

もしかすると、こうも時間にうるさいぼくのほうが「おかしい」のではないか?

という気もしてくる。

日本人は元来時間などどうでも良いというか、すくなくとも「時間から開放された」人種であったのかもしれない。

いまでも遅刻をよくする人は、かつての「天然特性」をいまだにしっかりと持ち続けていて、時間という枠におさまらない自然で自由な特性を持ち続けている稀有な存在、ともいえるのかもしれない。

いっぽう、ぼくときたら「時間という牢獄の囚人」である。

遅れることに非情に怯え、時間を守ることに強い執着を持っている。

 

こう問うてみる。

住民が時間に正確であることが必要な社会は果たして幸福な社会といえるのか。

たしかに、工業的な事業においてはパンクチュアルであることは重要である。

では、工業的に進化した国の国民が、必ず幸福であるといえるのか?

答えはNoであって、それは当然、工業的進化と人間存在の幸福は論理的に同一ではないからである。

もっといえば「時間」とは本来あらゆる存在の根本原理であり、時計の針が示す数字は時間そのものではなく「便宜的時刻」つまり記号に過ぎないものである。

記号に過ぎない「かりそめ」に至上の価値を付与しているような、かんちがい社会を、果たして是とすべきなのかどうか。

 

アレだ。

遅刻常習犯のほうが案外「正常」なのかもしれない。

「時間に拘束されない」という、人間として正常なバックアップ機能が働いているのではないか。

あらゆる時間は存在の中にあり、あらゆる存在は時間の中にある……と、チベット密教は説いている。

時間から自由になったとき、ひとは本来的に自由となる、のかもしれない。

遅刻を、ゆるそう。

 

いや、もういっそ………………遅刻しよう。

眠ければ、寝てればいいぜ。

約束なんぞ、責任なんぞ、信用なんぞ、人間関係なんぞ、夢なんぞ、計画なんぞ、クソくらえじゃ。

そんなしょうもないモンを守ってるヒマがあるのなら、じぶんを守れ。

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