春うららの庭先で飼い犬の脳天をボーっと見ていたら、
あっ!
思い出した!
忘れてた!
ぼくはここ10年ちかく、完全に忘れていた。
「文武両道であること」
現代でいう「文」は勉強や学問芸術など文化的なことを指していて、「武」は武術だけでなくスポーツ全般を指すようである。
ぼくに限らず、最近の日本では「多様性」に引っ張られすぎて、あまりこのことを言わなくなったようにも思う。
人にはそれぞれ個性があり、得意な部分を伸ばせば良いのであって、無理に苦手なことを自分に課す必要はない、というような意見も多い。
ぼくも若干、そう思っていた節がある。
そう考えることがリベラルであり、文化的なことだと思っていた。
でもなあ。
実体験として、感じていることがあるのだ。
武、すなわちスポーツ的なことから離れていくとけっこう大きな問題が起こるということに。
運動不足はカラダに良くないというのは、もはや常識でもある。
しかし実際には健康問題だけではなく、別の怖い問題も出てくるのであります。
運動不足が続くと、からだが弱くなるだけではない。
バカになっていくのである。
それはもう、てきめんに、そうなっていくのだなあ。
これは個体差とか本人の感想とかではなくて、医学的にもそうなんだそうである。
まあ、ふつうに考えればあたりまえなのだけれども、運動というのはカラダだけではできないのである。
一般にスポーツをすることで得られるメリットは、体力の獲得以外には以下のようなことがある。
- 規律を守る能力の向上
- ルールを遵守する精神の醸成
- 公平さやフェア精神の醸成
- 競争心・闘争心の醸成
- 向上心の醸成
- チームワーク能力の向上
- リーダーシップ能力の向上
- 精神力の向上
- コミュニケーション能力の向上
- 戦略を立てる能力の向上
意外と忘れられがちなのが、これらのこと自体が重要かどうかということよりも「これらのことを実行していくにはある程度高い知能が必須である」ということである。
勉強はさておき、すくなくともあたまの回転が良くなければ、スポーツはまともにできない。
ぼうっとしておったのでは、なあんにもできないのであります。
リラックスしていることを呆然としていることと同義のように考えてしまうこともあるが、ほんとうは全然ちがう。
リラックスしているときこそあたまがフル回転できる、ということなのであって、断じてあたまの回転が鈍いのはリラックスしているということではない。全然ちがう。
そして真のリラックスのためにはそこそこ強靭な肉体と、適度な緊張も必要なのであった。
緊張感なく、ダラダラ呆然を続け筋力が低下していくと、神経が不安定になり、唐突に交感神経がわけもなく興奮したり、さまざまな刺激に過敏になっていく。
リラックス=癒やしではない。
リラックスと緊張の中間点に、真の癒しがあるのであった。
また、じつは「文」よりも「武」のほうが、使用する脳の領域が広範なのであった。
子どもにスポーツをさせると成績が向上するという実験結果もある。
これは当然で、継続的な運動によって脳の機能が向上したためであろう。
武、すなわちスポーツは、じつは知的作業なのである。
ガリ勉が気持ち悪いのは、ここにある。
学校の成績は良いのかもしれないが、じつは勉強「しか」できないのである。
他者とのコミュニケーションをはかること、他者の思惑を想像すること、マルチタスク的に全体の情報のベクトルを察知する能力、対人力学の直感的洞察、先を読む能力などには、非情に高い「知能」、併せて「体力」が必須である。
それが欠けてるのに知的レベルとしてはかなり低級な「勉強」だけができるというのは、ひじょうにバランスの悪い状態になっている。
それを周囲は本能的に「気色がわるい」と感じるのであった。
賢すぎて気持ちが悪いのではなく、視野が狭くバカすぎて気持ちが悪いということである。
かといって「武」ばかりしていては、脳のポテンシャルは高くなるものの「使用に値しない」ものになっていってしまうかもしれない。
スポーツの世界で通用したことが、実社会ではまったく通用しないことも多い。
ゲームの世界でレベル上げをしたところで、実社会でそのレベルは無意味であることと同じ。
スポーツしかできない者は、勉強しかできない者と、価値としてはほぼ同義である。
140kmでボールを投げられたとしても、実社会ではクソの役にも立たんのである。
だから、両方やるしかないのであった。
多様性を認めるというのは、異常な偏りをゆるすということではない。
はやり個々人の中で、バランスをとっていくことが必要なのだろうと思う。
ということで、ぼくもしっかり、運動をしようと思う。
アタマつかって、カラダつかって、それではじめて「にんげん」である。