ひとから見ていくら幸せそうであっても、本人が不幸であると感じているなら、その人は不幸である。
ひとから見ていくら不幸そうであっても、本人が幸せであると感じているなら、その人は幸せである。
以上のことは、疑いようのない真実である。
ということはつまり、幸不幸は「あたしが決める」ということなのだなあ。
お金がないから不幸せ。
病気しているから不幸せ。
出会いがないから不幸せ。
ブスだから不幸せ。
バカだから不幸せ。
もし、そうならば、
お金があれば幸福なのか。
健康ならば幸福なのか。
出会いがあれば幸福なのか。
美人なら幸福なのか。
賢ければ幸福なのか。
お金があれば幸福になる確率は上がるのか。
健康ならば幸福になる確率は上がるのか。
出会いがあれば幸福になる確率は上がるのか。
美人なら幸福になる確率は上がるのか。
賢ければ幸福になる確率は上がるのか。
いずれもが「No」であった。
ということは、すなわち、幸福とは無条件であった、ということがいえるのかもしれない。
てめえで勝手に決めて良いことなのであって、自分以外の諸条件には依存していない独立概念である。
なのになぜ、
「幸福になるために努力をする」
のであろうか?
いくら努力をし、幸福になるための諸条件を無数に完璧に取り揃えてみたところで、当の本人が「しあわせである」と感じることができなければ、その人は永久に幸福になれないではないか。
この方式は、アルゴリズムが、クソすぎるのではないか。
アホすぎるのでは、あるまいか?
もしかすると、
幸福を「獲得する力」よりも、幸福を「感じる力」を強化するほうが、アルゴリズムとしてはスマートなのではないか?
どうせ努力をするのなら、幸福感能力をアップする努力をするほうが、賢いのではないか?
ぼくは長年勘違いをしていたが、じつは幸福とは無条件なのかもしれない。
無条件幸福。
おれがそう思えば、そうなる。
それが幸福の正体、
もしそうならば、学校って、会社って、仕事って、なんだったんだ?
努力って、なんだったんだ?
「勝てばしあわせ」の世界観で生きるよりも、「負けてもしあわせ」の世界観で生きるほうが、圧倒的に極楽なのではないのか?
ぼくはいま、けっこう幸せである。
運もよかった。
とちゅうパニック障害などというヘンな病気にかかって会社をやめたりしたけど、仕事はずっとあったし、たいへんな時期もあったけど、なんとか乗り越えられた。
周囲の人は「それはおまえが頑張ったからだ」といってくれるけど、ほんとうにそうか?
パニック障害っていうのは、腰痛や怪我とはちがうんだよな。
なんにもできないときは、ほんとうに、なんにもできない。
ばんばるとか、がんばらないとか、そういう次元のはなしじゃないんだ。
だからぼくは、べつに頑張ったわけじゃない。頑張れなかったからだ。
それよりも、家族とか友人知人とかお客さんに恵まれていたこと。
だから謙遜ではなく、客観的に考えて、ぼくは運が良かっただけなのだとおもう。
むろんまったく頑張らなかったわけじゃなくて、頑張ったこともあったけど、じつは「頑張ったこと」は結局なあんにも、うまくいかなかったんだよなあー。
だから総合的には、ぼくは残念ながら努力で困難を乗り越えたわけではなくて、周囲の助けがあって乗り越えられたとしか、結論ができない。
となってくると、もうマジで、冗談抜きで、こんなことを思ったりする。
「おまかせしまーす」
あのうー、ほんとうに恥ずかしいことなんだけれども、頑張ってなにかを成し遂げられるほど、ぼくは賢くも有能でもなかったんだなあ。残念だけど。
パニック障害だって10年間ほんとうに本気でがんばって根性出して治そうとむちゃくちゃ努力したんだけど、ちーとも治らなかった。
でもいっかい、努力を全部すてて、掃除と座禅ばっかりしていたら、極端にマシになった。
さいきんなんか、山登りにいったりしてるもんね。ちょっと前まで、外出恐怖で郵便ポストにさえ行けなかったというのに。
つまり「なんにもしない」ほうが、効果としては圧倒的に高かったんだ。
ということはつまり、努力ってあまり意味がなかったといえる。残酷だけど。ぼくのばあいは。
だから、どんなことでも、
「おまかせしまーす」
で、もういいんじゃないかなあ、と思ったりするのだ。
考えてみれば「おまかせなんか、できるもんか」という気持ちがあるから、がんばって、力んで、ひとに頼れなくて、肩が凝って、息が詰まって、自律神経をぶっ壊していたような気もする。
人に頼っちゃいけない、頼りたくない、なんて思いながら、けっきょくいっぱい、だれかに助けられてるんだし。
やってることが一緒なら、「頼りたくない」とかいう気持ちって、ただのオナニーじゃん。
いらないじゃん。
だからさいしょから、
「おまかせしまーす」
でいいのかもしんない。
などと思ったりする、あるはるのひ。