すてきな空虚、くだらぬ充実

早朝から突如として、人とのコミュニケーションが苦手なひとの特徴がわかったのである。

「どうでもいい会話が苦手あるいは、きらい」

「どうでもいい会話ができない」

 

いい天気ですねえ。

ですねー。

春は眠いですなあ。

ですなあ。

そういった「何気ない会話」こそ、できない人がいる。

じつは案外多くて、最近はこれを「コミュ障」といったりもする。

自身がとても強い関心を持っていることを熱く語ったり、重大な事項について激論を闘わせることはできるのに、あまり意味のない会話、なんでもない会話ができないことが多い。

 

バファリンの半分はやさしさでできているが、じつは人と人のコミュニケーションというのは半分以上が「空虚」でできている。

だれかと2時間居酒屋で飲みながら会話をしていたとしたら、1時間は「どうでもいい話」をしている。

いや、もういっそ、1時間50分はどうでもいい話をしているかもしれない。

 

「どうでもいい会話をする理由がわかない」

と、彼らは思うのであった。

だから飲み会なんか嫌いだし、人付き合いも忌避することが多い。

 

思うに、いわゆるコミュニケーションが苦手な人というのは「やさしい」のではないか。

相手が投げたボールはそれを確実にキャッチし、そして正しく相手に投げ返さなければならない、などと考えているのではないか。

そんなことをしている人など、この世にいないというのに。

 

あと「充実こそ正義」という概念もあるのかもしれない。

言い換えれば、それは「まじめ」ということでもある。

会話では双方に何らかの意味やメリットが生じなければならない、そうでなければ時間の無駄である、など考える傾向があるのかもしれない。

 

メリットがなければ時間の損失である、と考えるということは「けち」だともいえる。

こころが狭量である。

そもそもの話、だれかと会話をして「ああ、ためになったなあ」などと思うことなど、1%もないのではないか。

自己啓発系のセミナーであっても、そうである。

じっさいに学んだ内容が恒久的に人生に及ぼす影響など、1%どころか0.1%もないぐらいである。

つまりは、一見充実している研修においてでさえ、その大半は「空虚」でできている。

 

人とのコミュニケーションを苦手とする人は、総合すると、

・充実を正義とし、

・まじめで、

・やさしくて、

・けちくさい。

ということが、いえるのかもしれない。

 

これをさらにまるめてしまうと、

 

・狭量にして強欲

 

となる。

 

本来空虚でできている人との会話について、そこからなにかを得ようとすれば、とても疲れる。

あたまを使いすぎて、へとへとになる。

なにもないところに、なにかがあると思って探しまわると、ヘロヘロになっていくのである。

得ようとすると、人は疲れるのである。

これは自然の摂理であって、得すぎると世界のバランスが崩れるため、疲労感を与えて余計に得ないようにしているのだと思う。

 

1.人との会話の約半分は無意味でできていて、

2.世界の約半数の人は意味や意義を強く求めることはなく、

3.人は他人にそれほど関心はなく、

4.人は本質的に寂しがりやである。

 

ということに気がつくと、生きていくのがラクになるんだよなあ。

空虚である会話を、なぜわざわざ、集まってでもするのか。

「4」に鍵があって、寂しいからである。

双方の会話の内容に興味があるのではなく、相手に特段の関心があるのでもないのである。

 

「ただそこに、いてくれるだけでいい」

 

ほんとんどの人はたいがい、そんなもんである。

 

これを「許せない」ときに、人と接することが苦痛になってくる。

なぜ許せないか、それは「強欲」だからである。

空虚で無意味なことで時間を浪費したくないと考え、相手から有益な情報を獲得できないことに焦燥を感じ、なんとか空虚に意味を与えようと必死になっている。

「意味がなければならない」と思っているから、やさしさも、ヘンな方向へ行く。

誰かから相談を持ちかけられたら、相手のタメになるアドバイスをせねばならないと考えてしまう。

じっさいには、相手はただ「だれかに聞いてほしい」だけだったりするのに、いっしょうけんめい実現可能で効果の高いアドバイスをしようと考える。

でもそんなこと、人生相談のプロでもないくせに、できるわきゃあないのである。

できないのに、やろうとするから、ヘットヘトになっていく。

そしてとうとう「人と会話するの、イヤ」みたいになっていく。

最大の問題は、上記の行動原理が「すべて間違えている」ということなのかもしれない。

すべての存在の本質は空虚であるのに、そこに幻想的に暫定的な意味を与え、その意味を引き寄せ獲得したい、あるいは相手に与えたいという意図がある。

幻想から生まれた価値もまた、本質的に空虚であるから、得ることも与えることも不能である。

 

むかし「ググレカス」なる言葉があった。

なんでもかんでもだれかに聞いてくる人を戒め揶揄する言葉で、「いちいち人に頼らずにGoogleで検索して調べよ」という意味のことである。

観察するに、ググレカスということを言うひとは、すでにコミュ障の入り口に立っていることが多い。

「強欲にして狭量」の特質が発現しかけているからこそ、人から教え乞われることで自身の時間を奪われることを恐れ、また人が人に問うのは「わからないから」だけではなく「だれかと接していたい」という寂しさの表現の一種であることに思いが至らず「おれには関係がない」と無慈悲に断罪する指向性を持っているのである。

 

狭量すなわち心が狭いのは、じつは思考や性格や経験の問題ではなく、純粋に肉体の問題である。

呼吸が浅くなると、どのような人でも狭量になっていく。

日がな背中を丸めてディスプレイを眺めていたり、読書や細かい作業を長時間していると肋骨が下垂していき、肺活量が減少していく。

すると慢性的な酸欠状態になり、「酸素が欲しい!」という強烈な衝動が生まれる。

この衝動を継続的に抑え込んでいると脳内で変換されて「わたしには、なにかが足りない」という焦燥感を生むようになる。

そして強欲となり、時間や情報といった非物質的な事柄にまで「奪われる、足りない」といった妄想を生み始めるのであった。

 

ちなみに体育会系の人種やスポーツマンは「わが時間を奪われる」ことには、それほど強い恐怖は持っていないからなのか、コミュ障のような状態になる人は少ないようである。

また「むだな会話」にも、とくだん気にせず付き合うことができる人が多い。

肉体練磨によって強い精神力を得たわけでもなく、人との濃密なコミュニケーションで慣れているわけでもない。

血中酸素が十分だからである。

姿勢正しく、胸郭に余裕があり活発に呼吸ができる肉体があれば、些細なことには動じず「無意味」に耐えうるこころがうまれる。

胸郭の余裕は、こころの余裕である。

胸郭の柔軟性は、こころの柔軟性である。

 

胸郭に余裕がないひとは、体育会系人種がキライなことが多い。

バカだ、能天気だ、単純だと、こころのなかでバカにしている。

嫉妬の感情の場合もあるが、本気で嫌っている場合も少なからずある。

彼らが言うことは、一種の真実である。

体育会系の人種がバカで能天気で単純であることは、間違ってはいない。

だから彼らをバカにしている人は一種の真実を語っているわけで正しいのであるが、可愛そうでもある。

バカで能天気で単純であることが、しあわせの秘訣であるということを、知らないことが可愛そうだ。

 

胸を開けば、バカで能天気で単純になって、強欲と狭量から開放され、たのしく人生を歩んでいける。

背中をまるめて胸を縮めて勉強ばかりしていると、賢くはなっても幸せにはなれない。

どうして小学校で、これを教えてやらないのだろうか。

 

胸郭が狭いひとに「空虚と無意味を愛せ」なんて哲学っぽいことをいったところで、まったくの無意味である。

空虚はあたまで理解することではなく、からだで形成することだからである。

からだのなかに空虚が足りないひとには、なにをいっても無駄。

姿勢をただして、胸を開いて、おなかをゆるめて、おおきな深い呼吸ができるようになれば、空虚と無意味へのアレルギーは消える。

 

ときには空を仰ぎ、むねをひらいて、深呼吸をしよう。

そうすれば「空虚」とすこしづつ、ともだちになれると思う。

 

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