またである。
例のよくわからない熱と痛みが出てしまった。
これは大学生ぐらいからしょっちゅうやっていて、毎回虫垂炎ではないかと疑う。
右下腹〜みぞおちあたりが非常に痛くなり、熱が8度ぐらい出る。
で病院にいくと先生は
「うーん。まーあ。どうかなー。盲腸かなー。どうだかなー。」
などという超絶的に曖昧なことをおっしゃって、
「まあ炎症してるのは間違いないから、点滴でもやっときますかね」
ということで、抗生物質の点滴を打たれて終わり。
しかし点滴を打っても急激にマシになることも熱がしっかり下ることもなく、
まーあ。どうかなー。マシなのかなー。
などという超絶的に曖昧な変化しかないのであった。
そんなだから、こうなったときにはもう病院にも行かなくなってしまった。
抗生物質を打ってもあんまり変わらないから、家にあるどんな薬を飲んでも無駄である。
「耐える」
しか、やることはないのであった。
まあ、今年はまだマシなほうである。
2年ほど前にやったときはあまりにも腹痛がひどくて、ベッドから身体を起こすことさえできなかった。
だからトイレに行くときは意図的にベッドから床にバターンとうつぶせで転落し、「ぎゃああああ」と絶叫し、そこから5分ぐらいかけてジワジワと起き上がるということをしていた。
歩くだけでも激痛が走り、食欲もなく、なんにもできない。
これが2週間以上続いたので、けっこうつらかった。
しかし今年はまあまあ痛むもののベッドから起き上がることはできるし、ゆっくりなら歩いても痛くないときがある。食欲もあるし、仕事もいちおうはできる。
これはいったい、なんなのか?
なぜ、こんなことになるのか?
ぼくはもう、そういった「なにゆえに」というのは、どうでも良くなってきたのだった。
この痛みは定期的に起きるもので、薬を飲もうが抗生物質を打とうがあまり変化はなく、とにかく「待つ」しかない。
だから「なぜなのか」ということを考えてももう無駄であり、ぼくにできるのは「じっと待つ」だけなのであるなあ。
だからそんなことよりも、別件について疑問が湧く。
これは昔からなのだけれども、ぼくは「熱が出るとやさしくなる」というのがあるのである。
「熱があったら機嫌がわるい」
というほうが普通のような気がするのだが、ぼくは、37.5度以上の熱が出るとどうにも気分がおだやかになって、やさしい気持ちになるのであった。
正常なときは、飼い犬を見てもべつになんとも思わないし、忙しくて疲れているときなんかは邪魔だなあ、うるさいなあとさえ思うことがある。
しかし熱が出ると俄然、ぼくは犬がかわいいと思う。
犬だけでなく庭に生えている草木に至るまで、ああ、みんないい子だね、かわいいね、みたいなことを思うようになる。
人のことも、みんないい人に見えるようになる。
これはいったい、なんなのか?
なぜ、こんなことになるのか?
ぼくは俄然、こっちのほうに関心がある。
なぜか、ということは結局よくわからないのだけれども、「酔っ払っている状態」と似ているのではないか、と思う。
お酒に酔っ払うと脳の上等な部分がバカになって、その人の本性みたいなのが出ることが多い。
たまにお酒を飲むと暴れたり暴力的になる人がいるが、そういう人は「根っこがそういう人」なのかもしれない。
逆にお酒を飲むと上機嫌になって社交的になり、人類みな兄弟的な平和な気分になる人もいて(こっちのほうが多いようだけど)、これも「根っこがそういう人」なのかもしれない。
理性というフタが剥がれるにはお酒などの麻薬系の方法以外に「発熱」というのもあるのかもしれない。
熱が出たらだいたいの人はバカになってしまうから、理性のフタがフワッフワに浮いてくるのだろうか。
もしそうだとしたら、ぼくはわりと、愕然とする。
ふだんのぼくには、律儀で厳格で、頑固で、まじめで、高圧的なところがある。
しかしお酒を飲んだときと熱が出たときは、この特性が全然ちがうものになる。
これがもし本性だとしたら、ぼくはこんな人になってしまうのである。
・人が好きで
・動物や自然が好きで
・あたまのなかがお花畑で
・甘えん坊で
・のんきで
・のんびりやさんで
・好き嫌いがなく
・こだわりがない
・・・。
あれっ。
これって「しあわせな奴」ではないのか?
そこでぼくは、唐突にヒラメイたのである。
ぼくを不幸せにしているのは、理性なのではないか。
「理性を取り除いたら人間はむちゃくちゃになる」
みたいなイメージがあるけど・・・。
じつは、それ、ウソなんじゃないか?
たしかにそんな人も、いるんだろう。
でも理性がなくなったら突然動物的になって、むちゃくちゃをしでかす人なんて、じつはあんまりいないと思う。
もしそうなら居酒屋なんか営業ができないではないか。
飲んだら人は陽気になって、やさしくなる場合のほうが多い。
理性のフタが麻痺したら、むしろ「しあわせ体質」になる人のほうが多いような気がするのである。
いまの日本には「努力教」という邪教のほかに、「理性教」という邪教も蔓延しているのかもしれない。
この双方の邪教の根本原理は、同じである。
「人間を信じていない」
性悪説だなんていうやさしいレベルではなくて、なんだかもっと根深い、うすぐらい、人間の動物的な部分をクソみたいに思っている残酷なイデオロギーに支配されているのではないか。
ぼくはふと、思うのである。
理性がなくとも、努力せずとも、人間はそのままで本来しあわせで神聖な生き物であり、そんなものがなくても正常に進化成長する生き物なのではないか。
なぜならば「いきもの」だからである。
むしろ不和と不幸と不健康をもたらすのは、いつも理性や努力だったりする。
なんか、どっかで、大きく間違ったような気がするんだよなあ。