ぼくはもしかしたら前世は僧侶かなにかだったのではないかと思うことがある。
勝負事にまったくといっていいほど関心がない。
というかむしろ、嫌いでさえある。
両親の遺伝ではないようなのである。
父も母も「勝つ」ことがとても好きで、スポーツ観戦なども大好きだ。
子供の頃両親が騒ぎながらテレビで野球観戦をしている間、ぼくは呆然と窓の外を眺めたりしていた。
つまんないのである。
巨人-阪神戦が行われている球場につれていってもらったこともあるが、そこでも辟易してしまった。
だれかがミスをしたりすると観客席からヤジが飛び、なかには本気で激怒しているおじさんもいる。
かと思えば応援しているチームがヒットを打ったりすると、こんどは逆に称賛の嵐である。
そのような光景を眺めていたぼくは、思った。
「まるで狂人ではないか」
いまでも、そう思っている。
サッカーでも野球でもなんでもいい、スポーツ観戦をして怒ったり喜んだり泣いたり笑ったりしている人を見ると、ぞっとする。
まるで狂人である。
勝つチームがあれば負けるチームがあるのはあたりまえではないか。
勝ったからといって、だから何なんだ。
負けたからといって、だから何なんだ。
それがいったい、ほんとうに、どうしたというんだ。
いまだに意味が、わからない。
そもそもスポーツのほとんどは「イジワル大会」でもある。
相手が嫌がるようなところにボールを投げたり打ったりするのである。
そして、とにかく相手の邪魔をするし、騙そうともする。
相手が嫌がって受け取りそこねたり打ちそこねたのを見て、喜ぶのだ。
おまえはいったい、どういう神経をしておるのだ。
どういう育ち方をしてきたのだ。
しかし解説者なんかはそんなイジワル行為について「いまのはいい球でしたねえ!」などと称賛したりする始末である。
ちがうだろ? ただしくは、
「いまのは、まったくもって、卑怯でしたなあ」
ではないのか?
ルールの範囲内だからとかいうのは、ぼくには屁理屈に聞こえる。
「相手が嫌がるようなことはしない」
ということが、どうしてりっぱな大人のくせに、できないのか?
そして、相手が嫌がって困っているのをみて、どうして喜べるのか?
それではまるで、アスペルガー症候群ではないか。
謎である。
そんなだから、RPGのゲームさえ、ぼくは楽しめない。
仮想空間とはいえ、オオカミだのクモだの化け物だのを殺しまくるというのが、心が痛む。
「したくないことだから」である。
ばかじゃねえの、おまえゲームと現実の区別ついてねえんじゃねえの。
って言われるかもしれないが、そんなことを言うヤツには、そのままその質問を投げ返したい。
じゃあクエストが「数学の問題を解くことばかり」だったら、おまえは楽しいのか?
ゲームと現実の区別がしっかりついているのなら、イヤなことであっても、仮想空間なら楽しめるというのだろう?
じゃあ四の五の言わずに、ケームの世界で微分積方程式を40個、嬉々として解け。
仮想空間でオオカミを40匹殺すのが好きなのなら、数式を40個解くのも楽しめ。
いやだと? クソゲーだと?
じゃあおまえも、ゲームと現実の世界の区別がついていないことになる。
したくないことは、ゲームの中だろうが、現実だろうが、したくないものなんだ。
ゲームの世界で好きなことは、ほんとうは現実でも好きなんだろう。
ほんとうは、食いもしない動物を殺しまくりたいんじゃないのか?
なにかの病気なんじゃないのか?
ぼくの「本音」からすれば、この世のいろんなことが「きちがいじみている」と感じる。
勝つ、成功する、達成する、戦う、そんなことばっかり言っててさ、正直いってきもちわるくね?
ダサくね?
なんか、ガキっぽすぎるような気がするんだよなあ。
とかいいながら、ぼくはスポーツが「好き」である。
嫌いなのはスポーツ観戦であって、スポーツじたいが嫌いなわけではない。
からだを動かすことは気持ちがいいし、とても良いことだと思う。
それに、相手に勝つまえに自分に勝つ必要がある。
この世でもっともとっつきやすい「自分に勝つ」トレーニングのひとつが、スポーツでもある。
しかし、スポーツには落とし穴もある。
中毒性が、高すぎる。
「おのれに勝つ」という主目的を喪失し「敵に勝つ」ことばかりに執着してしまうことが多い。
スポーツで敵に勝ったって、クソの役にも立たぬくせに、「おれは強い」という勘違いだけが残る場合がある。
ちがうよ。
おまえは「仮想空間で」強かっただけだ。
しかしよくできたもので、いわゆる一流アスリートはそのようなことにはならないことが多い。
何事かを悟り、超越したような神聖な雰囲気を持つひとさえいる。
いちばんあぶないのは県大会でいいところまで行った、全国大会に出たことがある、というレベルかもしれない。
勝敗に拘る執着だけを持ち続け、仮想空間で得た結果を現実世界の自己の自信の担保にしている。
最も重要なことには気が付かず、「勝つことは良いことである」と信じ続ける。
ぼくが、そうだった。
そこそこ柔道を頑張ってきて、中途半端に強かった。
だからぼくは「勝つ」ことがとても大事だと信じていた。
ぼくのばあいはもともと勝敗にあまり関心がなかったので、相手に勝つことよりも、「じぶんに勝つ」ことがとても大事だと信じてきた。
パニック障害になったとき、この指向性がひじょうに邪魔になった。
「病気に勝つ」というような幼稚な思想を持ってしまったのである。
どのような病気であっても「勝つ」とか「負ける」とかいうような思想は持ち込むべきではない。
なぜならば病気というのは「勝つ」対象ではなく「解く」対象だからである。
けんかして倒すようなしろものではない。
とくに神経的、心理的なもののばあいは、とくにそうである。
実態がない対象について勝つだの、負けるだのという二元的な幼稚な指向性を持っていると、もう、治らない。
ぼくはこれに気が付かなかったから、いっしょうけんめいに努力した。
勝つために、努力した。
じぶんに勝つために、努力した。
そして、10年間頑張っても、治らなかった。
努力がわるかったのではない。
努力の「目的」が、わるかったのである。
「勝つための努力」、これがひじょうに、じゃまだった。
「勝ちたい」という気持ちが、ぼくを痛めつけていた。
だからもっともすなおでスマートなソリューションは「勝つことをすてる」ということだった。
あきらめること。断念すること。
勝負の場から「降りてしまう」ということ。
そうすれば、こころがきゅうに、ゆるんできた。
「勝たねばならない」という義務感こそが、ストレスだったのだ。
勝たなくて良い。
いや「勝つな」。
じぶんに勝っては、ならないのである。
じぶんに勝ったら、じぶんを負かしたのとおなじであるから、まるで修羅の世界である。
そんなことでは、解決しない。
この病もまた、わたしの一部であった。
勝つのではない。
ともに生きるのである。
「勝つと思うな思えば負けよ」というのは、「実質的に」ほんとうであった。
病に限らず、ほとんどのことが勝敗では解決しない。
勝負事を嫌うことを「甘い」というひとがいる。
しかしじっさいには、勝ち負けに執着するほうが、ずっと甘い。
あまあまの、大あまちゃんである。
勝負事で解決する問題はこの世のたぶん1割程度だし、残りの9割の問題は勝敗を超えたところにソリューションがある。
世界の1割の領域でしか生きてこなかったから、そんなことが言えるのだと思う。
「勝ちたい」という気持ち、それもとくに「重大なこと」について勝ちたいという気持ちを捨てられるほうが圧倒的に難しいという点でも、決して甘いとはいえない。
勝とうと思えば負けるのに、
負けようとしたら結果的には勝っていたりする。
現実とはまったく、そんなもんである。