今年もまた「腹膜炎ふうの腹痛と高熱」がでました。
毎回虫垂炎じゃないかと疑うような症状で、おなかが痛いといっても内臓のほうではない感じで、腹筋に近いところが痛む。
それがまた右下腹〜みぞおちにかけてだから、虫垂炎と似たような症状。吐き気がすることもある。
横になったら腹筋が痛くて体が起こせないぐらいで、歩くこともままならないのです。
熱も37.5〜38.2ほど出て、めちゃくちゃダルくなるんだけど、これまた虫垂炎に似ている。
この症状はまず高校2年生のときに出て、大学生の時も、社会人になってからも、数年に1回の頻度で顔を出してくるのでした。
で毎回病院に行くんだけど、毎回先生は「うーん」と唸るだけ。
たしかに虫垂炎の症状とだいぶ合致しているけれど、血液検査などをしてもそれほど炎症が強いというわけでもなく、医学的には手術するレベルのものではない、と。
しかし熱がかなり高いから、経過観察の一環として抗生物質を処方してもらうだけです。
そしてこれがまた変なはなしで、薬がたいして効いていないようなのだ。
薬を飲んでも、結局1週間は痛みや熱がつづく。
抗生物質というのはわりと「てきめん」に効くものらしくて、細菌が原因なら翌日にも熱が下がってもおかしくないそうなのです。
薬を飲まなくても1週間ぐらいで治るから、ということはつまり、薬効いてねえじゃねーかー! と言わざるをえません。
原因は細菌ではなく、ウィルスなのかもしれないなあ。
毎度1周間は身動き不能になるんだけど、今年は3日ほどで熱も下がり、ある程度動けるようにはなりました。
だから今回はすこし「マシ」だったのかもしれません。
あと今回は、ちょうど熱と痛みが出たのが水曜日の夜からで、かつ比較的仕事が落ち着いていた時期なので木金は仕事をセーブして土日は休業し、まとめてゆっくり休むことができました。
3日間ほとんど横になっていたので、それも効果があったのかもしれません。
で、ふと気がついたのです。
かれこれ30年近いお付き合いだけれども、この症状が出るときぼくはどういう状態だったか、ということに。
「身体が疲れていた」
は?
「気づく」っていうほどのことでもねーだろ!
あたりまえじゃん!
っていう話、なんですけれども。
でもなんていうか、ずっとこの症状を謎だ謎だと言っていて、原因はなんだろうなんだろうと考えていた、ぼく自身の「あたまのなかみ」が、とても怖くなったのです。
「ものごとにはかならず原因があり、その原因を取り除けば改善する」
というような、一種の「道理教」のようなものに、ぼくは汚染されていたのではないのかな、と思ったのです。
まあ必ず原因があるというのは間違っていないんだろうけど、ぼくが定義する「原因」はすべからく、病原菌や血流、神経反応などの「直接原因」でした。
医者でもないくせに、ぼくはそのようなことを考える傾向があるのです。
虫垂あたりで炎症が起き、それが腹膜に広がってみぞおちまで痛みが拡大し、吐き気や発熱などの症状を惹起したのではないか。
そしてこの炎症の原因は、なんらかの細菌やウィルスによるものなのではなかろうか。
だからその細菌もしくはウィルスを排除するか、免疫力を高めれば治るのではないか。
という「妄想」です。
「仮説」という名前の仮面をかぶった「妄想」です。
この妄想ストーリーが合っているのか、間違っているのかということはいったん横に置いといて、もっと確実な「現実」があるのでした。
「休めば、治る。」
「寝たら、治る。」
いぜんはこのような症状が出たとき、いろんなことを考えて食べるものを工夫してみたり、ヨガやストレッチをしてみたりなど、よけいなことをけっこうしていました。
また、どうすれば治るだろうかとネットや本を読み漁っていたこともありました。
「アクティブレスト」などという呪文にクラっときて、じっとしているよりも無理のない範囲で多少は軽く動いたほうが良いのではとか思ってすこし歩いてみたり、あるいは呼吸法をしたりもしていました。
かつては学生だったり会社員だったりしたので、少々痛みがあっても通学通勤をしたりもしていました。
まあ結局8度以上の熱が出て起き上がれないほどの腹痛になるので、どうせ休むのですが。
そして、そんな経過をたどると、治るのに毎回「きっちり1週間」かかる。
病院にいって、抗生物質を処方してもらっても、治るのに毎回「きっちり1週間」かかる。
しかし、今回はちがいました。
別件でぼくは先日「すべてをまかせる」という呪文をひらめき、べつに宗教的なことではないんだけれども、予期せぬ事象についてはそれをどうこうしようとするのではなく
「かみさまに、おまかせしまーす」
と思って、すっかり「放り投げて」しまう方法を思いついたのでした。
そすると俄然心身がラクになるし、事態が悪くなることもとくになく、むしろ早く解決することが多いということがわかったのでした(もちろん、場合によりますが)。
そんな頃だったから、今回もベッドのなかで、ずっと思っていました。
「かみさまに、おまかせしまーす」
どうしたら治るだろうかとか、なにが原因なんだろうとか、なにをやったらダメで、なにをしたらいいのか、みたいなことをぐるぐる考えるのはよして、ひたすらまかせる。
まあ言うなれば、このような熱や痛みを出したのもかみさまで、これを治すのもかみさまだから、ぼくがなにをやったって意味ねえわ、だからなんにもしないでおこう、なんていう、ある角度から見ればまるでクソやろうみたいな、無責任な態度です。
でもほんとうに皮肉なもので、けっきょくそっちのほうが、早く治った。
通常は7日間かかるものが3日ていどでほぼ治ったのだから、半額大バーゲンセールです。
そしてこの結果を冷静に眺めてみると、早く治った最大の要因はおそらく、これでした。
「なにもしなかった」
そうなのです。
「なにもしないと、早く治った」
「どんな薬も、効かなかった」
このふたつの条件を組み合わせたら、回答はたったひとつなのです。
「疲れていたんだね」
パニック障害だって、おなじでした。
「なにもしないと、早く治った」
「どんな薬も、効かなかった」
10年間がんばって治そうとして努力してきたのに、ヨガもずっとずっと続けてきたのに、その努力をぜんぶ捨てちゃって、掃除と座禅しかしない生活を送ったら、きゅうに改善しはじめました。
掃除なんてべつに特別なことじゃないし、座禅なんかまさに「なんにもしていない」のです。
密教系やタントラヨガ系の瞑想ならいろいろ思考すること、やることがありますが、座禅にはそういうのはない。
またマインドフルネスにしたって、けっきょく「自身を向上したい」っていう願望がどこかにある。
でも座禅は、それすら思っちゃいかんのです。
自分をよくしたいとか、改善したいとか、治したいとか思うのは、ましてや悟りを得たいだなんて思うのは、座禅では最悪の禁忌事項なのです。
座禅に功徳なし、意味なんてなんにもねえ、だからこそやるんだ、ただ姿勢を正してすわるんだ、四の五の言わない、考えないのっ、みたいなことだから、わりとピュアに「なんにもしていない」んですよね。
なんにもしないほうが、近道だったようなのです。
だからパニック障害についてでさえ、こう言えるんです。
「疲れていたんだね」
「なにかをしないと、改善しない」ことがあるのはまちがいなく確かなんだけど、いっぽうでは「なにもしないほうが改善しやすい」ということも、思ったよりも多い。
これは勘違いをしているのかもしれないけど、もしかしたら後者のほうが多いんじゃないかとさえ、ぼくはさいきん、思いつつあります。
なにもしないほうが、うまくいく。
もしそうならば、なんていうか、ぼくの人生、いったいなんだったんだろう。
ぼくがめざしてきた、がんばりやさんとか、ストイックとか、努力家とか、向上心を持つとか、そういうのは、もしかしたら「愚か者になる」のと、同じことだったんだろうか。
ぼくは、まさかとは思うが、愚か者を目指していたのだろうか。
まあ、それはさておき、今回の腹痛に限らず、ぼくを悩ませるいろんな症状の共通点がわかった。
「どんな薬も、方法も、効かない」
ということは、である。
ぼくは以前、こう考えていました。
薬が効かない = 奇病、ふしぎな病気
どんな方法も効かない = 奇病、ふしぎな病気
うーん。
どうかなあ。
ちがうんじゃ、ないかなあ。
どんな薬も、方法も、効かない = おつかれ
だったのかもしれない。
どんな薬も効かないのなら、効く薬を探すのじゃなくて、薬を飲まなければ良い。
どんな方法も効かないのであれば、効く方法を探すのじゃなくて、なにもしなければ良い。
疲れを治す方法は、ただひとつ。
「とくに、なにも、しない」
がんばりやさんも、ストイックなことも、努力することも、向上心を持つことも、ぜんぜん悪いことじゃないですよね。
とても、いいことだと思う。
でも、そういうのも度を超えてきたり、凝り固まったりしてきたら、ただの害悪になってしまう。
なぜ害悪になるか。
いろいろあるけど、度を超えた努力って「疲れる」んですよね。
つかれが、ひとを、だめにする。
だから、そろそろ、ひとやすみ。
あとまわしにしないで、いますぐ、ここで、ひとやすみ。