不完全だから、美しい。

こころの病とか神経症とかの多くは「完全を求める」ことに起因しているということに気がつくと、思うよね。

ワシの人生、なんやったんじゃワレー!

 

ほんとにもう、昔っからみんなキチガイみたいに「完全」を求めるんでやんの。

完全であること、完璧であることを「美しい」とか思うんでやんの。

本来美しくないものごとを美しいと思うのは、それはつまりセンスが悪いのであって、ダサいのであるよね。

ぼくはダッセエやつらの言うことをすなおに聞いて、あたまがおかしくなったんである。

 

ウソなんだよなあ。

「完全は美しい」っていうの。

ほんとうは「不完全だから、美しい。」

 

 

きちがいの多くが「完全性の希求」からうまれているらしい。

潔癖症なんかがいい例で、「完全なる清潔」みたいなことを望むことで、あたまがイってしまう。

育児ノイローゼもそうで、「完全な母親」「完全な育児」を実行しようとして、あたまがイってしまう。

ウツやパニックなんかの患者も、その多くが「完璧主義」に囚われてしまっているのだそうだ。

まあ、その人の認識がおかしいといえば確かにそうなんだけど、世界の方もすこーし狂っていると思う。

「完璧・完全は良いことである」っていう哲学に支配されているところがあるから。

 

「完璧を目指しするぎるから悪いのであって、完璧を目指すことじたいが悪いわけではない」

みたいなことを言うひとがいるけど、もしかしたら、これじたいが間違っているのではないか。

すなわち、

「完璧を目指してはいけない」

「不完全は必要不可欠な要素である」

ということがじつは「正しい」のではないか。

 

経済活動などにおいては完全性が期待されるというのも理由のひとつかもしれないが、遡ればもっと根深いものがあるような気がする。

そのむかし、人類がはじめて望遠鏡を作って月を見てみたら、クレーターだらけのデコボコだった。

すると神学者たちは激怒した。

「神がつくりたもうた月が、こんなにイビツであるはずがない! この望遠鏡を作ったやつは、詐欺師だ!」

まあ、どっちが詐欺師かわからないけども、そういうことである。

むかしの神学者たちは、

「神は完璧であるから、創造物も完璧であるべきである」という、ちょっとノータリンなエリアで停止してしまって、神がつくりたもうた人間も完璧にならねばならぬ、的な、あきらかな神経症のような指向性を持ってしまっていたようである。

そんな社会で文明が進んでいってしまったから、西洋ではどうも根っこのほうで「完璧はすばらしい」という基本思考があるのかもしれない。

歴史的に東洋ではエゴを捨てられた人が尊敬されていたけど、西洋では目標を達成した人のほうが尊敬を集めていた時期が長かった。

この「目標を達成する」という考えもまた、完璧主義である。

西洋から持ち込まれた文化には、根っこのほうに「完璧主義」が寝そべっているように思う。

 

しかしもっとすなおに世界を見てみれば、じつは「完全なものなど存在しない」し、「不完全であるから美しい」ということに気がつく。

たとえば富士山はキレイだけど、もしあの富士山が定規で線を引いたみたいな完全な左右対称をしていたら、あんまり美しくないと思う。

人間の顔も、完全な左右対称だと、ものすごく気持ち悪くなるらしい。

ほんのすこーし歪んでいるから、自然で美しいと感じるのだそうだ。

服装でも、たとえばスーツを完璧にピシーと着こなして、髪型もピシーっとしていたら、とてもあたまが悪そうに見える。

そこで「着崩す」という技がうまれるのだけれども、それを「難しい」とかいう人もいる。

どの程度着崩せば良いのかわからない、とかおかしなことを言いだすのである。

だから人の感性とはとても優れているのであって、「着崩し方がわからないような低い知能」を本能的に感じ取るから、あまりに完璧な服装をしている人を見ると、ああ、こいつはきっとどうしようもないバカなんだろうなな、ということに「正しく」気がつく。

 

完全を求めると、あらゆる面で、不完全になる。

不完全こそ、美しい。

 

このことに気がついた瞬間に、世界はとっても良いものに見えてくる。

両親が「人間は完全でなければならない」という迷信に固執していると、ちょっとあたまの悪い子供が生まれたら、とてもつらい思いをしてしまう。

なかには、この欠陥品が! とかいって罵倒するひともいるようである。

しかし「不完全こそ美しい」という価値観があれば、ノータリンな子供は、それはそれで美しいということになる。

また、不完全性を許せない気持ちがあれば、不完全な自分も許容できなくなってしまう。

しかしいくら努力をしたところで、この世界は「不完全」を必須最低条件とした原理で動いているから、絶対に完全にはなれない。

ということは、死ぬまでずっと自分を嫌いなままで生きていかねばならぬ。

それはただの、地獄である。

しかし「不完全を含むものこそが完全」という正しい理解をしていれば、不完全さを含む自分もまったく手軽に許容できる。

というか、「わたしは不完全でなければならない」と思えば、もうなにも努力せずともそのままでOKなのである。

これはただの、天国である。

 

 

こどもや動物が可愛いくて美しいのは、じつは「不完全」だからであった。

不完全で、不安定で、不規則で、非合理。

しかし完全に近づくにしたがって、それらのものは、すべての魅力を失ってしまう。

幸い動物は完全になろうとはしないので、死ぬまで美しい。

しかし人間はいずれ「完全になりたい」というよけいな指向性を持ち始める。

その瞬間に人間は「醜さ」で自分自身を装飾しはじめるのであった。

 

 

不完全でいいんだ、不完全で。

というかむしろ、不完全でなくちゃ、いけないんだ。

 

と思ったら、すくなくとも、「きもち」だけはすこし、うつくしくなれるような気がする。

 

不完全を許容できないような人間は、この世でもっとも醜い生き物だ。

弱いもの、障害があるもの、役に立たないものを見殺しにするような、とてもつまらない生き物であるから。

しかし弱いもの、障害があるもの、役に立たないものを「美しい」と思えるひとたちは、すくなくともこころが、生き方が、美しい。

 

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