「許さない」という快楽

神経的におかしい人の共通点のひとつとして、「許せない」性格が強い、ということに気がついた。

自分に害をなした人を許せないというだけではなく、「矛盾が許せない」というのもある。

 

本人はときにこれに気がついて、しおらしく

「許せないじぶんを変えたい」

なとど思ったり、言ったりすることもある。

もっとおおらかな人間になならければ、と。

 

ウソである。

 

実際には「そういうふうに反省している姿勢を持つことが免罪符になるのではないか」という期待が大きかったりする。

まあそこまでは行かなかったとしても、許せないという感情に対して少々の罪の意識を持っただけ、ということだったりする。

じつのところ、こころの奥底では、ほんとうのほんとうには「変えたい」などとは思っていないことが多い。

むしろこころのどこかでは「こういう性格はわたしの長所のひとつだ」などと思っているというのもある。

正義感が強いこと、矛盾を糾弾する透明な精神は「美点である」とさえ考えている節があるのである。

冗談じゃない。

真面目であること、正義感が強いこと、矛盾が許せないこと、完璧を目指すことは、この世で最大の「汚点」といえる。

この世界は不完全を旨とし、不完全を根本原理として動いているのだから、それを違う許せぬと思うというのは、世界からズレている。

完美世界という狭い妄想の世界から出ていけない、井の中の蛙の箱入り娘のようだ。

 

実際には、精神が純粋がゆえに矛盾が許せないのではない。

「ラリっている」だけである。

許さないという感情は、じつは快楽の一種なのであって、いちどこれを味わってしまうと、ジャンキーが何度も麻薬に手を染めてしまうのと同様、やめようと思ってもやめられなくなる。

勧善懲悪ものの映画やドラマが好まれるのも、「正義は麻薬」だからにほかならない。

この精神的麻薬が民族レベルで蔓延すると戦争になるし、コミュニティレベルで蔓延すると異端者弾圧になる。

 

なぜそう断言できるかというと、ぼくがそうだったからである。

性格的に正義感が強く、間違ったこと、筋が通らないことが許せないところがあった。

矛盾を理詰めで糾弾し、ねじふせて、矯正していくことに一種の快感をおぼえていた。

しかしこのことには、大いなる副作用があった。

精神が双極的に分断していくのである。

一種の躁うつ病に近いのかもしれないが、躁状態のときにはそのように「まちがい探し」を好み、それをいちいち張り倒したくなる衝動に駆られる。

そしてその状態が長らく続くと、こんどは真逆の状態に落ち込む。

「なにもしたくなくなる」「なにも考えたくなくなる」という状態になっていく。

このような変化を繰り返していくことは、パニック障害を発症させたこととはまったくの無関係とは言えないような気がする。

 

まず根本的に「誤った認識」があった。

正義、ということについて、非常に良いものだと考えていた。

そして矛盾、これは最も悪いものだと考えていた。

これは明らかに「まちがえている」。

まず正義とはただの主観であって、正義と対立する者たちの中にも、正義がある。

だから正義を押し通すということは、「もうひとつの正義を殺す」ということにほかならない。

これはアルゴリズムとして、クソ以外のなにものでもない。サイテーな方向性だ。

そして矛盾、これを否とする指向性もまた、最大限に「誤った認識」である。

「矛盾のない物事など存在しない」というのに、それを否定するのであるから、時間とともに正比例的に実相と乖離していくことになる。

許せないことが増えていき、許せない自分も許せなくて、堂々巡りとなり、ぐるぐる回ってそのうち疲弊し、バターになる。どろどろになる。

なにもしたくなくなる。

 

考えてみれば、よくできている。

完璧主義者や潔癖主義者、正義感が強く真面目で矛盾を許せぬ性格の持ち主が往々にして精神を病み、

双極性障害やウツ、パニック、強迫性障害となって社会から逸脱していくのには、天地自然の理が働いている。

「そんなやつがのさばったら、世界が壊れる」

からである。

この世は不完全であり、おおいに矛盾を抱えており、それらはバグではなくむしろ「本体」なのであった。

不完全こそが本体。

矛盾こそがこの世の本体なのである。

そこへ「完全」「完璧」「無矛盾」を持ち込むと、この世界は崩壊してしまう。

そこで天地自然はそのような指向性を持つものに足かせをはめ、封印し、行動不能にして「矛盾にしっかりと漬け込む」ことにより、気長な更生を図るのであろう。

そして矛盾ということについて、あるいは善悪や正義不正義の彼岸ということについて、「腹で」理解できたとき、その人は寛解する。

 

矛盾がこの世のバグなのではない。

矛盾を許せぬもののほうこそが、この世のバグだったのである。

 

彼らはこの世の目に見えぬデバッガーによって「デバッグ」される。

しかしこのデバッガーには、愛がある。

完全とは「死」であり、不完全こそが「生」である。

がゆえに、不完全なこの世界のデバッガーは、バグも殺さず、生かそうとする。

死をもって除去するのではなく、「不完全なままに」生かして、更生を促すのであった。

ここにもまた、不完全がある。

しかしこの不完全によってこそ、安全でやわらかな変化が実現できるのであった。

 

ではなぜ、このようなバグが、人間に起こるのであろうか。

それはこの世が「不完全」だからである。

この「不完全の陥穽」にたまたま落ち込んだ者には、「不完全を許さぬという快楽」が与えられる。

この快楽は酒やセックスに比べられぬほどに強烈であるから、「正義執行人」「矛盾の破壊者」はベロンベロンに酔っ払って、これを突き進む。

主観という牢獄に閉じ込められて、井の中の蛙となって、狭い美的世界に閉じこもっていく。

そして「不完全な実相の世界」から隔絶されていく。

 

この牢獄から脱出するには、まず「知る」ことであろうと思われる。

・この世は不完全と矛盾によってこそ成立している、ということを「知る」

・矛盾を許せぬのは性格や思考や経験が原因ではなく「中毒」であるということを「知る」

 

そのために、瞑想や信仰があるのだと思う。

瞑想と信仰は、ひとに客観性を与える。

しかしここにも、不完全性がある。

誤った瞑想と信仰は、矛盾を嫌い、完全性を志向するバグを強化するのである。

よくカルト系の宗教団体が暴走するのは、ここに原因がある。

そうならないように指導してくれるのが「グル」と言われるひとなのだろうと思う。

しかしそんなグルもまた、なかなかいないのが現実。

瞑想や信仰について「おかげ論」「効く論」を展開するひとは全員、誤った指導者である。

しかし残念なことで「おかげ論」「効く論」を持ち出さなければ、だれも聞く耳を持たぬ。

瞑想には、効果も意味もない。

信仰には、効果も意味もない。

だからこそ、瞑想せよ、信仰せよ。

そういうことを言うひとのことを、いったいだれが信じるだろうか。

ふしぎなことに、ここには矛盾がないのである。

牢獄に落ち込み、無矛盾と正義にラリっているものは、整合性の高いものにしか興味を示さない。

「矛盾を抱えた論理にピンとこない」時点で、もうバグっているのであるから。

言い方を変えれば、複雑性を理解できないから矛盾を許せず、効果や功徳を求めるのである。

複雑性を嫌うこころもまた、バグのあらわれである。

 

このバグが少ないひと、あるいは道づけられている人は、ピンとくるようである。

「効果がないから、効果がある」

一見相反し、矛盾している論理について、ことばでは説明できなくとも、まさに「ピン」とくる。

 

きっと幸い、窓際に座っていたので、心の窓から、ちらっとだけ見えたのであろうね。

矛盾という「この世の心臓」が。

 

不完全と矛盾をゆるしたとき、まさに的確にその状態を表現した有名な言葉がある。

 

Let  it  be.

 

そのままに、あるがままに。

 

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