感謝する練習

座禅が習慣化してくると、ふしぎなことが起こるのですね。

やりはじめの頃は、単純な快楽を感じていました。

いつも炎症気味にコーフンしていた神経が落ち着いて平和な気分になり、なんともいえぬ心地よさを感じるのです。

気持ちがいいから続けていったわけだけど、200日を過ぎてくると、そのうち妙な感覚をおぼえるようになる。

 

「もう、ぜんぶ『おまかせ』でいいんじゃないかな」

 

がんばろうとか、努力しようとか、闘おうとか、ちゃんとしようとかいうのは、もちろんいーんだけれども、まあ、そのう、もうべつにいいかな。

がんばるのをやめる! とか、努力は捨てる! みたいな、そんなコワイ否定的な感じでもなくて、なんちゅうかその、もっとふわっとした感じ。

(なにを言っておるのだ? おれは。)

 

そして300日を過ぎてくると、いったいなにが起こったのかよくわからないのだけれども、

「神に感謝しよう」

とか思いはじめるのでした。

 

おい、どうしたんだ俺!!

どうなっちまったんだ!?

あたま、だいじょうぶか?

ぼくはぼくの肩をハッシと掴み、前後にガクガクと強く揺さぶってやりたい気分になるのでした。

 

座禅というのは「自力本願の代表」みたいな感じがありますね。

でもそれをシツコク継続していくと、逆に「圧倒的な他力」というものに気がつくというかなんというか、そういうことがあるのでしょうか。

これはなにかの、皮肉なのかな?

あたま、ダイジョウブなのかな?

 

と一瞬不安になりそうだけれども、どうやら生理学的に正しいのかもしれないのでした。

 

座禅をつづけていくと、セロトニン、ドーパミン、エンドルフィン、オキシトシンとかいうホルモンが「出やすく」なるのだそうです。

そしてまたいっぽうで、「感謝」という感情もまた、そういったホルモンを大量に分泌するようなのです。

だから座禅と感謝というのは、生理学的には似たようなことをしている、ともいえるのかもしれないです。

似ているから、似たような位相の感情を誘発しやすくなるのかもしれませんね。

 

そういえば禅では

「一に読経、二に掃除、三に座禅」

ということが言われるそうです。

つまり禅の修行においては座禅じたいの優先順位は思いのほか低い、と。

それよりも「読経」のほうがよほど優先される、ということなのだそうです。

 

さてこの「読経」、ぼくは「学習」とか「勉強」とか、そういうことなんだろうと思っていました。

仏教の思想をよく学び理解すること、それが一番重要だと言っているんじゃないのかな、と。

もしかすると、そうではないのかもしれませんね。

読経=勉強というふうに考えたのは、それはぼくがお経=読書と解釈したからだと思います。

しかし千年以上前の時代において、読経とは必ずしも学習を意味してはおらず、神仏への帰依を示す「こころのはなし」だったのかもしれません。

お経というのは聖なるものであって、そのへんの「本」とは一線を画すものだという認識は、きっとお坊さんには強くあったはずです。

だからここでいう読経というのはむしろ「祈り」のことを指していたのかもしれません。

そして上記の優先順位は

「一に信仰、二に掃除、三に座禅」

というふうに言い換えることもできるのかもしれませんね。

まあ、わかりませんが。

 

またちなみに「祈り」というのは「感謝」のことなのだそうです。

「わたしの願いが叶いますように」というような、わが欲求や目的が達成されることを念じるのは「祈り」ではなく「願い」であって、もっといえば「命令」でもあります。

なにごとかを変えようとする「意図」にほかならず、祈りとはまったく対局の位相にあるらしい。

祈りとは現状を受容すること、受け入れること。

思い(意図)を捨てること。

すなわち「感謝する」ということなのだそうです。

 

は?

なにゆーとーねん。

と、以前のぼくは思っていました。

しかし最近のぼくは、なんということでしょう、「なるほどね」などと思う。

人間というのはやはり、変わるもののようでありますね。

 

さておき、感謝について。

 

「感謝しないと損」とも、いえると思う。

感謝をすれば、脳からドバドバと幸福感を与えてくれるホルモンが出てくる。

もしそうだとしたら、おなじストレスを受けたとしても、

方や「しあわせホルモン満杯」のひとが行った解釈と、方や「しあわせホルモン枯渇状態」のひとが行った解釈では、まったく違うことになるのではないか。

前者はストレスが軽減され、後者は強化されるのではないか。

「同一条件であれば反応は同じ」というのはあくまで動物実験的な考え方であって、「ヒト」に関してはこれはあまりあてはまらないことも多い。

まったく同じ条件下でも、思考が違えば反応が変わることも多い。

 

そういえばぼくは、物心ついたころから「感謝する」ということが、とても少なかったように思うのです。

「努力して能力を高めていくこと」

「うまく人と渡り合っていける能力をつけること」

「つよい精神力を身につけること」

「知識を身につけること」

「いろんな経験を積むこと」

親や先生に、そういうふうにしろといわれて育ってきましたし、ぼく本人もそれは大事なことだろうと認識していました。

しかし一歩引いて見てみれば、これはすべて「得る」という行動原理に支配されていたということです。

得る、勝つ、乗り越える。

むろんこれは悪いことだとは一概には言えませんし、良い側面もたくさんあります。

しかし「得る、勝つ、乗り越える」という指向性に「感謝」ということが欠如していると、とてもしんどい人生になるかもしれませんね。

「怒ってばかりの人生」になる。

だって、ずーっと戦っているのですもの。しまいには、

「最大の敵は、我なり」

とかいいだして、自分自身まで敵に仕立て上げて、たたかいつづける。

ぼくは、このような状態を「修羅」というのではないのかな、と思ったりします。

 

「たたかう練習」はいっぱいしてきたけど、

「感謝する練習」は、あまりしてこなかった。

 

とくに最近の日本では、宗教的なことについてアレルギーを持っているひとも多いです。

まあたしかに、ひどい宗教もけっこう多いので、そうなってしまうのも仕方がないともいえます。

宗教を信じている人には「わたしがしあわせになりたい」という、強いエゴが動機になっている人も多いので、そういうひとは「戦う」ことがとても好きで、じぶんの宗派以外のひとを「敵」にしたがる。

だからあまり人と融和できないことが多く、よけいに軋轢を生みやすいというのもあります。

そしてみんなは、宗教から「逃げて」いった

危険な宗教のひとはみんな「宗教=願いを叶えるもの」だという。

しかしほんとうは、そうじゃない。

「宗教=感謝する修行」。

宗教から逃げていったために、みんな「感謝」も一緒に置いてきぼりにしてしまって、魂が抜けた「礼儀」と、口先だけの「謝辞」が残った。

みんな、ありがとうございます、とは「言う」けれども、脳の中でほんとうにホルモンを噴出させながら感謝しているひとは少ない。

腹の底では、みんな「恐れている」か「怒ってる」。

 

 

勝つ練習もいいけれど、「感謝する練習」も必要ですね。

ぼくはキリスト教徒ではないけれども、とくにカトリックの「祈り」は、さすが歴史があり、かつ「いまも生きている宗教」だけあって、本質を突いているところが多いように思う。

(日本の伝統宗教の祈りは、美しいけど形式化してしまって、言葉が上滑りしているのが多いように感じるのです。)

 

朝と夕、一日に2回だけでも「感謝する」っていうのは、良いトレーニングになると思う。

 

朝の祈り

 

あたらしい朝を迎えさせてくださった神よ。

きょう一日わたしを照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。

物事がうまくいかないときでも、ほほえみを忘れず、

いつも物事の明るい面を見、

最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりでなく、

あなたの望まれることを行い、

まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見いださせてください。

 

 

夕の祈り

 

一日の働きを終えたわたしに、

やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、

あなたに祈り、感謝します。

きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちに、

たくさんのお恵みをお与えください。

わたしの思い、ことば、行い、怠りによって、

あなたを悲しませたことがあれば、どうかお赦しください。

明日はもっと良く生きることができますように。

悲しみや苦しみの中にある人たちを、助けてください。

わたしが幸福の中にあっても、

困っている人たちのことを忘れることがありませんように。

 

 

声に出さなくても、ただ読むだけでも、なんだかやさしい気持ちになれます。

ずっと感謝して生きていくんだなんて、あまり現実的じゃないです。

だから1日に1回か2回だけもいい、筋トレをするように、

感謝する練習。

 

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