コロナの終わりは、こころが決めるのかもしれない。

いやべつに、「こころのありようによってコロナは生まれた」とか、「だからこころのありようでコロナは消える」などというような、アタオカ系スピ&オカ&メルヘンチックなことが言いたいのではないです。

そうではなくて、この疫病もまたウヤムヤのうちに終息した「ことにしてしまう」んだろうなと、わりと確実に思うところがあります。

 

非常に冷たく、思い切っていってしまえば、

「人類はまた、疫病に打ち勝つことはできなかった」

と言って、もういいんじゃないかなと思っています。

じつは過去のいろんな伝染病の多くも、うやむやのうちに「終わったことにした」のだそうです。

いったいどういうメカニズムで、どういうストーリーをたどって収束し終息したのか、ものすごく賢い医学者さんや科学者さんでもわからなかった疫病は多いらしい。

これまで人類の努力によって「疫病を終息させることができた」と胸を張って言えるのは、天然痘だけなんだそうです。

 

で、「コロナはいつ頃終息するのか」ということについては今までは医学者や科学者など「理系のひとたち」がいろいろな予測をしてきていたんだけれども、最近に至ってはついに「歴史学者」も考えるようになってきたようです。

ウィルスとしてのCOVID12の生態とメカニズムを考えるのではなく、「過去の人類は疫病とどう付き合ってきたか」という「記録」をベースに予測していく。

そして歴史学者が出した予測が、

 

医学的に終息する前に、社会的に終わりを迎えるであろう

 

ということらしい。

つまり、もう世の中が疫病の流行に対する施策に疲れ果ててしまって、ワクチンや治療法が確立される前に、「終わりました」と「宣言」するのではないか、と。

 

これだけを聞けば、真面目なひとはきっと

「なんちゅうフザけたことを! そんないい加減なことが、許されていいのかッ!」

とわめき散らすだろうと思う。

しかし残念ながら、過去のパンデミックを伴う疫病の多くが、そのような経緯で「終わったことにされた」のだそうです。

これはなんと「歴史的事実」らしい。

 

妙な感じがするけれど、これはもしかしたら不思議でもなんでもなくて「病気というものの本質」なのかもしれないな、と思ったりもします。

といいますのも、ぼくのパニック障害や自律神経失調症も、なんで治ったのかということが、いまいち明確ではない。

10年以上ものすごく頑張って、ほんとうにいろんなことを試してみても、どんなお医者さんに相談しても治らなかった。

そこで思い切って考えるのをやめて、なにもしないでおこうと放置すると……やっぱり治らなくて、つまり「ほんとうの意味で」なにをしたって(なにもしない、ということも含めて)治らなかった。

しかしふと気がつくと、さまざまな症状が、ほとんど出ていないことに気がつくときが、くる。

そしてそのときに、「ぼくが」「これは終わった」と宣言したとき、この病気は本当に「終わる」。

これはこころの病だけではなくて、腰痛も、虫垂炎のような腹痛も、高血圧も、細かいところでは水虫や喘息でもそう。

「なんかしらんが」「治ったような気がして」「治ったことにした」

じつは病気というものは「ものの見方」あるいは「自己決定」というものに、想像以上に影響を受けているのかもしれない。

こういう考え方にはなんだかスピ&オカっぽい雰囲気があるけれども、じつはよくよく思い返してみると、じつはほとんどの病気や怪我がそうだったりもする。

「あれをしたから、治った」

「これをしたから、治った」

そう確実に言える病気の方が、じつは少ないんですよねえ。ほんとうに。

だいたいのことは、じつは「ぼくが」、「流れで」、「治ったと宣言した」。

だから「本気でほじくり出せば」、たぶんまた全部が出てくるのかもしれない。

 

なんというか、この世の事象というのは、「なくす」ことなんか無理で、じつは「全部ずっとある」のかもしれないなあ。

消えたように見えたものは、じつは「引っ込んで見えづらくなった」だけ……というよりも、もっといえば、「わたしが見なくなっただけ」なのかもしれない。

ほんとにもう、こんなことを言い出したらマジで仏教の「唯識」のようになってきて、あたまがこんがらがってしまいそうだけれども、実際にそんな側面があるような気がする。

もちろん、全部が全部そうだとは、言わないけれど。

でもぼくは最近、わりとハッキリした輪郭線をもって、以下のようなことを感じるのです。

 

もうそろそろ人類はコロナを「終わったことにしてしまう」んじゃないかな。

 

そう感じる理由はある。

世の中のひとたちが、コロナのことをあまり意識しなくなってきているようなのです。

昨年のコロナ騒ぎの初動では、近所のスーパーはもちろんとして、老若男女問わず、公園や道端でもみんなマスクをしていました。

しかし今年の7月下旬ごろから、さすがにスーパーなどではほとんどの人がマスクをしているものの、公園や道端などではマスクをしていない人をよく見かけるようになった。

また仕事がリモートワークになったと言っていたひとが、最近はふつうに出勤をしている。

近所でも、外出している人の数が最近はどっと増えている。

居酒屋もふつうに営業しているようで、夏祭りもふつうに開催している。

人々の表情を見ていると、以前のような不安感がもう見られないのです。

 

言い方を変えれば、みんなの危機意識が弱くなってきたともいえる。

しかしこれは、市民の気が緩んだとか、政府の施策がわるいとか、そういうことでもないような気がするのです。

「人間という生き物の限界」

そんなことを感じる。

みんなバカじゃないんだから、できるだけ出歩かないほうがいいとか、マスクをしたほうがいいとか、そんなことは百も承知なんだ。

「あたまでは、わかってる」。

そして、みんなが自分自身への制限解除をしているのは、「そうしないと収入が得られないから」というような赤い切実なことではない場合が多いというのも注目に値する。

「あたまではわかっているが、生活上致し方がないので」では、ないのである。

ただ、純粋に、こころのほうが麻痺をしはじめているように見えるのです。

これは人々の忍耐力とか心の強さとかの問題ではなくて、人間とはそうした生き物である、というような気がする。

だからもう、今後どのような施策をしても、どんな法律を作っても、奏効しないんじゃないかな。

このへんが、人類の限界なのかもしれない。

そして限界に達した時、政府が宣言する。

「終わったよ。理由はとくにないが」

 

ほんとうは、終わってなんかない。

過去のさまざまな疫病たちがそうであったように、なんにも終わってないのだ。

だけどもう「終わり」ということにしないと、人類の「自己の存在を保持する意識」が壊れてしまう。

物理的な終焉よりも先に、意識的な終焉が先に訪れる。

そこでもう完全なる論理の跳躍が起こって、かんたんにいえば「理屈なんぞクソ喰らえ」で、「もう終わったことにしよう」。

ふしぎなことで、この世には賢い人がいっぱいいるのに、どういうわけかこの論理跳躍に「突っ込む」ひとはあらわれない。

こうして歴史は進んでいくのでしょうかね。

 

ぼくは全然賢くないので、来たるべきこの未来について、もちろんべつに反対なんかしない。

そういうことならば、それはそういうことで良いのではないのでしょうか、と、うなぎ的にヌルヌル申し上げることでしょう。

遅かれ早かれ、疫病の終焉とはその多くが「うやむや」で、最終的には「決め」だけが残る。

これはじつは、ほとんどのものごとが、そうなんですよね。

完全なんかありえないし、事実なんてのも、じつは幻影とそんなに変わらない。

いまこの瞬間に「決めた」ことだけが、その瞬間の事実となる。

こうした「瞬間の事実」を紡ぎながら、人類はこの夢の繭を膨らませていく。

 

みたいな。

わしゃあ、何をいうとるんかなあ。

何をいうとるんか、じぶんでもわからんが、そのようになるんだろうなあ。

これでいいのだ。

と、ぼくは「決める」のでしたよ。

終わり。

 

  • ぽぽんた より:

    捨てられたものなんか ない。
    忘れられたものなんか ない。

    記憶 も。

    そんなこと おもったりするのです。

    ずっと ある。
    すべて ある。

    そうして。なんとか。
    やっていく。

    • TERA より:

      こころの中には「すべて」が存在しているという説がありますね。
      仏教の唯識論と似ているんですけど、たしかユングとかフロイトとか(違うかもしれませんが)、そのへんの人が言っていたような記憶があります。
      意識とか集合無意識とか、宇宙の話より難しいですね。
      難しいから、そんなことよりうまいもん食ってよく遊ぶほうが、なんかいいような気がしてきました。

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