そういえば、読んだことがなかったのです。
「ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本(ラム・ダス著:mind books)」
アメリカのヒッピー・ブームやニューエイジ運動の火付け役ともなったといわれる有名な本です。
LSDやシロサイピンなどの向精神薬を常用して悟りを開いたといわれている、ラム・ダス氏の著作です。
Amazonで見てみると、かなり評価が高い。
よし、このお盆はこの本を読んでみよう。
わりと読みやすい本だったので、あっという間に読み終えました。
で・・・・・・ぼくはとても、驚いた。
驚いた点が、ふたつある。
その1。
「書いてあることが、だいたいわかってしまう」
げっ。
やべえなあ。
ぼくはもしかして「ラリパッパ」なのだろうか・・・あたまが「イッて」しまっているのだろうか・・・。
と心配になってしまったけど、なんのことはない。
ぼくはもともと東洋思想に興味があって、中学生ぐらいにヨーガやタントラ、密教、仏教、ヒンドゥー教、チベット密教などの本をよく読んでいました。
その後インドに1ヶ月ほど放浪の旅に出たこともあるし、4年間通い詰めたヨガもクンダリーニ・ヨーガというタントラ色の強い神秘系の流派でした。
真言密教系の本物の行者さんに話を聞いたこともありますし、チベット密教の勉強会にも参加したことがあります。
つまり「基礎知識」がある程度あったので、「なに言うとるかわからん」ということがなかったのですね。
すくなくとも、用語についてはすんなり入ってくるのでした。
その2。
Amazonの評価が非常に高いけれど、読者のほうがよほどサイケデリックであったことです。
素晴らしい本です。
人生の教科書に認定致しました。
本編真ん中ら辺にある詩とイラストのところは染みます。難解なところもありますが啓示に富んだ素晴らしい内容になってます。
現代人は様々なしがらみにがんじがらめとなり、余計な事を考えすぎているように思えました。今とここ。生きるということの原点であり、終着点なのだと確信しました。ビーヒアナウ。オナニーしてきます。
真ん中あたりのカラフルなページ、凄まじいですよ。
この本に出会えてよかった。
聖書や、コーランと同等の上質さがあると言っても過言ではないかもしれない
精神世界の探求を始めたばかりの人は、
なんでもいいので、シラフではない状態に自分を置いて何度も何度も読みましょう
“聞く耳”を持った状態で、何回もよく噛んで咀嚼しましょう
この本は近年流行りのマインドフルネスがどうとか、そういう”次元”の話ではありません
次から次へと刊行される新書や啓発本のように、即効性のありそうな情報や心構えを提供しようとする試みでもありません
そういった俗っぽい期待を持ってこの本を手に取ると、あまり意味がないし、きっと後悔します。
これは、紛れもなくラムダス氏による”冒険”の手引書ですそう、”無形性”を手に入れるための長い長い”冒険”の手引書なんです
人生で上手くいかない時、いつも助けてくれる本。
今ここ。に戻してくれる。
色々読んで、結局これいちばん読んでる。
中身が濃いぃ。
これとラマナマハルシで充分。
どれをとっても素晴らしい!の一言。
インドで読むと、人生の質変わります。
読み終わった後の幸福感がとんでもない。
本なのに、文字なのに、物質なのに。
何だか全てがわからなくなってしまうくらいトリップしてしまう。
この本は愛で出来ています。
こんな感じで、全面降伏的に高い評価をつけている人が多い。
イってるなあ。イっちゃってるなあ。すげえなあ。
この本について、ここまで心酔できるというのは、じっさいに「らりぱっぱ」の人たちなのだろうか。
まあぼくは覚醒剤などやったことがないので、「ほんとうの意味で」この本を理解できていないというのはあるのかもしれない。
・・・・・・と書いて、ふと思い出した。
待てよ。
ちがう。
ぼくはもしかすると覚醒剤を「やっていた」のかもしれない。
というのも、ぼくは36歳のときにパニック障害になり、当時はまだ病理が一切わかっていない頃だったので、かなり強い向精神薬を飲まされていました。
都合5年間、毎日飲んでいました。
そしてある夏の日。
庭に出ると、朝の陽光を浴び風にゆらめく朝顔を見た。
すると突如として全身が強いエネルギーに包まれた。
この全地球に差別なく横溢する生命の光、この生命の光に言語を超越した畏敬と感謝の念をおぼえ、ぼくはその場で喜びに満ちあふれて、号泣したのでした。
その後、真夜中の決まった時間に目がさめるので布団の上に座っていると、暗闇の前方から巨大な光の玉が轟音を立てて飛来し、額のどまんなかに激突して脳髄を突っ切って後頭部から抜けていく経験を何度もしました。
その光の玉はまさに無数で、恐怖を覚えるほどの高速でした。
またそのころ、ヨーガの修行で山中に宿泊していると、夜中に突如黄金と瑠璃でできた巨大で壮麗な光り輝く楼閣の幻影を見ました。
そしてそこの白い衣を着た主が「汝の入門を許可する」という。
そこでふと目が覚めて、なんだ夢かと思ったとき、全身青い服を着て、くろい顔をした男が走り寄ってきて、いった。
「どうしておまえが、ここにいるんだ! 出ていってくれ!」
そしてぼくの顔面をしたたかに蹴り上げて、走り去っていったのでした。
そののち、この世で守るべき道徳事項のようなことが、脳内に怒涛のように落ちてくるのでした。
ね。
「イっちゃってる」でしょう?
そうなのです。
これは神秘体験でもなんでもありません。
向精神薬の副作用なのです。
そこでぼくはキッパリと薬の服用をやめました。
そこから6年間、一切の薬の服用をやめ、パニック障害と「がぶり四つ」でたたかうことになります。
するとそのような幻影は二度と現れなくなりました。
おそらく、この本を読んで「いっていることがわかるような気がした」というのは、こんな経験があったからだと思います。
そう、たしかにそのような感覚をおぼえたことがある。
しかしぼくは断言する、この神秘的に感じる幻影たちは、けっして「本物」ではない。
この世の根っこでもなく、選ばれた者だけに見える隠された神秘とかでもない。
クスリで混乱したぼくの脳神経が生み出した、ただの幻影にすぎなかったのです。
だから、この本を読んで感じるのは、以下のようなことです。
東洋思想系の本をイヤというほど読んできて、実際にタントラ系の修行的なこともしてきて、向精神薬で幻影を見る状態にまで陥り、そこから「帰ってきた」ぼくが受ける、この本に対する印象。
この本の内容を、たったひとことでいうならば、
confusion
「混乱・錯乱」を感じる。
ひとつひとつの言葉尻をとらえて揚げ足をとるわけでなくて、全体を通じ総体として、直感として受ける印象が、まさに「混乱と錯乱」なのでした。
ある意味感動してしまったのが、驚くほどに徹底的に軸を喪失し、言葉や用語だけが洪水のように混乱と混沌のなかでマーブルアートのようにサイケデリックに散らかっていることです。
これはこれで、一種の芸術なのかもしれません。
しかし、評価にあるような「聖書やコーランと同等の上質さがある」というのは、いくらなんでも言い過ぎかなと思いました。
そのような神的なインスピレーションは「一切ない」と思います。
むしろその逆で、むしろデモニックで、低級な、未整理の、原始的なバイブレーションを感じる。
思い切って言ってしまえば、とても低次元だと感じる。
レビューには「近年流行りのマインドフルネスがどうとか、そういう”次元”の話ではありません」とあるように、たしかに「マインドフルネスにさえも到達できない」低い次元なのかもしれません。
いわば「マインドワンダリングの4段階目」みたいな感じです。
また「わかる人にしかわからない」みたいなことを書いている人も多いけれど、それは聖書でもそうなのだから、おそらく彼らは逆に、聖書や仏典などの聖性については「わからない・感じられない」のだろうと思います。
いやべつに、ぼくはこの本を読む人が低級であるとか、それに引き換え私はわかっているとか、そんな勘違いをしたエラそうなことが言いたいのではありません。
ぼくだって似たようなものですから。
しかし、もしこの本を読むのであれば、まともな師匠について本当にヨガの修行や座禅をしてみたり、東洋思想について広範な知識を系統立てて得ておいたほうが「安全」だろうなと思いました。
これに心酔するじぶん自身の心の状態が、まさに「いま・ここで」どのような状態にあるのか。
どのような状態にあるから、これに心酔するのか。
そのあたりを客観的な視線で分析できるハイヤー・セルフがいないと、この状態を最上の段階と勘違いをして、魔境に転落する可能性があるのではないかと思いました。
これは理屈ではなく、直感です。
禅でも言うそうです、「悟ったと思ったら、その悟りの境地は捨ててしまいなさい」「悟りとは無限であるから、悟ったと感じたその位置はまだ道半ばである」。
神に会えば神を殺し、仏に会えば、仏を殺せ。
サイケデリックな極楽浄土や自分自身を超越した上位階層の自分自身を垣間見たとしても、それはまったく悟りの境地ではなく、ほとんどの場合は「魔境」である、と。
考えてみれば、もし薬物で得た高次元の感覚が「正」なのであれば、仏教や禅宗でも薬物の摂取をもっとつよく推奨するはずです。
しかし薬物によって得た世界は魔境であることが多いことから、神秘の系譜においては一切の薬物を排除して修行をするようになったのだと思います。
まあ、わかりませんけどね。
もしかしたら、この本の「世界」こそが、最高到達点なのかもしれませんから。
ぼくなんかには、到底知りようのないことです。
ただし、もしこの本の世界が最上最高の到達点というならば、べつに目指す必要はないなと思いました。
ぼくは強欲なので、もっともっと、強烈な世界を求めてる。
その世界は、言語も色彩も形而非形而も具象も抽象も超越した、すべての魂が生まれ帰結する、この世の根っこにある「天界」である。
この本が伝えようとしている世界とは、似ても似つかぬものなのです。
そしてその世界は、薬物などなくても愛を持って我を捨ててただしく生きていれば、見えることがあるそうです。
ぼくは俄然、そちらの世界に憧れる。
幻影に過ぎないこの世界で、幻覚剤を用いて垣間見た世界はまた、幻影である。
幻影が生み出した幻影である。
この世に秘されたものなどなく、すべては悠久の過去から無窮の未来まで、いまここに、目の前に開陳されつづけている。
幻影に頼らず、酔ったりラリったりせず、しっかりと目を覚ましたまま、いま、このとき、この場にある一切の事象が内在する、無限時空に直接参入すべし。
みたいなことを言うと、これまた「ラリってる」みたいなんだよなあ。
そんな話は、どうだっていいんだぜ。
そんなことより、日々じぶんを支えてくれている無数の人々、すなわち家族や友人や社会や世界に、愛をそそぎ、感謝をしよう。
敵対する人のためにこそ、その幸せを祈ろう。
悟りを目指して修行をするよりも、困っている人を現実的にたすけてあげることや、ゆるせない人をゆるすことのほうが、何千倍も何万倍も尊いことだとおもう。
ただしい祈りは、いかなる神秘的な修行をも上回る。