イエスは仏教徒だった!?(2)

以前読みかけていた「イエスは仏教徒だった!?」ですが、やっと読み終えました。

娯楽本ではなく学術書だったので、けっこう読み応えあったなあ。

 

要するに、イエスの根本的な思想が仏教と非常に似通っており、歴史的事実と組み合わせて考えてみるとイエスは仏教徒だったか、あるいは仏教を学んだ哲学者だったのではないか、という仮説です。

この本を読みつつ、書いてあることが本当かどうかネットで調べながら読んだので、よけいに時間がかかりました。

読後の感想は「そうだったのかもしれない」。

んな馬鹿な、とか、それウソやんけ、とか、妄想だろうが、というふうには思えませんでした。

ぼくはべつにキリスト教徒ではないけれど寝る前にはいつも聖書を読んでいるのですが、聖書に書いてある内容が仏典ととても良く似ている内容がたまにあることには薄々気がついていました。

しかし、この本を読んでまず驚いたのは、聖書には「仏典と似ているところがたまにある」どころか「まったく同一の話」さえが載っていることです。

 

たとえば「パンと魚の奇跡(マタイ14:15 – 21、マルコ6:35-44、ルカ9:13-17)」と、「ジャータカ」という仏教文献にある話の内容はまったく同じ。

そして(5000人の)群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。(マタイによる福音書)

いっぽう「ジャータカ」には、こうある。

物乞いの鉢の中のパンをもって、ブッダが500人の弟子と僧院すべての飢えを満たし、それでもなお12籠のパン屑が余っていた

 

これはもう、言い訳ができないほど類似していますね。

こんな感じで、聖書には仏典から引用したとしか考えられない逸話がいくつも載っているのでした。

 

聖書を読んでいると「イエス様は二重人格なのではないか」と思ってしまう箇所があります。

「汝の敵を愛せ」「憎むな」「敵対する者にこそ愛を持て」という慈愛に満ちた説教をしているというのに、じぶんが受け入れられなかった街には呪いの言葉を投げかけたりしている。

これでは、矛盾もいいところです。

しかし「Q資料」という各福音書の原典としたであろう仮説上の文献と照らし合わせると、この矛盾も解消される。

どうやら攻撃的に見える箇所はイエスの言葉ではなく、かなり後になってから追加されたと考えられるのでした。

このように精緻に検証をすすめていき、実際の歴史的背景も合わせて考えると、もはやキリスト教が仏教の影響をガッツリ受けていたということはほぼ確実になってしまうようです。

 

個人的には、この説はたぶん正しいのだろうなと思います。

イエス様が仏教徒だったかどうかはともかくとして、少なくとも仏教的な思想を受けていたということは、十分にありるうるでしょう。

 

いっぽうで、こんなことも考えます。

哲学をどんどん突き詰めていくと、どんな方角から入っても、最後には同じような結論に至るのではないか。

というのも、宗教や哲学というのは人間そのものを対象としていて、人間は人種や文化などで多少の差異はあるものの、根本的な部分では共通することも多いです。

親しい人を失えば悲しく、富が増えればうれしく、裏切られると腹も立つ。

人間とはなにか、ということを考え抜くと、最終的には「信仰」や「清貧・貞潔」、「愛」や「慈愛」といったことに最終的には到達するのかもしれません。

このあたりのことは、なにも仏教やキリスト教の専売特許ではなく、その他の宗教や哲学でも重要視されていることです。

 

これはただのオッサンにすぎないぼくの個人的な経験ですが、ヨガやタントラ、座禅などを通じた結果、やはり愛や慈愛、信仰心ということが非常に重要ではないかと考えるようになりました。

もともとはパニック障害を治すためにハタヨガから入ってタントリック系のヨガも学んでいました。

ヨガには精神をコントロールすると言われるさまざまなメソッドがあり、これをマスターすれば病気も治るのではと期待したのです。

かなり真面目に取り組みましたが、やはり3年やそこらの修行では意味がなかったのか、病気が治ることはなく、むしろ悪化する傾向さえあり、精神的な成長もとくに感じられませんでした。

得られたのは、すこし柔軟になったカラダだけ、という感じです。

その後ヨガや密教からは離れて単純に座禅だけを行うようになり、200日間連続で毎日座禅をしました。

すると100日目ぐらいにとても安定したすがすがしい精神状態を何度か体験するようになりました。

病気は治らないとしても、すくなくとも神経が暴走することが減っていきました。

そして200日めを迎えるころに、予想だにしなかったことが起こったのでした。

自力本願を旨とするぼくの強硬な性格からして絶対に考えないであろうことを考えるようになったのです。

いや、考えるというよりは「そうならざるを得ない」というような、ある種の状態です。

絶対者への絶対的帰依

すべては絶対的な神のような存在の意向によって動いており、「わたし」という存在が操作できるのは想像以上に少ない。

よけいなことをぐずぐず考えたり、悩んだり頑張ったり予防したり計画したりするよりも、すべてを「『それ』におまかせする」という原理のほうがよほど優秀なアルゴリズムである、ということを思うようになった・・・主観的にいえば「気づいた」のでした。

そしてまた、じぶんのことではなく、きらいな人、合わない人たちの幸福「こそ」をつよく祈ることによって、「わたし」が完成することを知った。

これはじぶんでもかなり驚いて、もしかしたら気が狂ったのではないかと恐れました。

しかし幸いとくにおかしくなったわけではなく、べつに神の声が聞こえたとか見えたとかでもありませんでした。

そんな劇的な経験とかは一切なくて、「あっ。そうか」程度の、なんでもない、まったく高揚感もない、ただのふつうの感覚でした。

それにパニック障害じたいは治っており、自律神経の不具合もかなり改善していました。

この領域は、ぼくが元来最も忌み嫌っていた「他力本願」の指向性です。

神さまだか仏さまだかしらないが、そんなものがほんとうにはあるわけがなく、神が人を作ったのではなく人が神を作ったわけで、そんな世迷い言に我が身を捧げるなど笑止千万。

科学的に、医学的に、合理的に考え、つよく自己を律し、能力を高めてこの人生を成功させることこそが我が使命である、と基本的には考えていました。

しかし、その考えが「すぽっ」と取れてしまった。

微粒子のように小さく弱く些細な「ぼく」という存在の能力なんぞを、小手先の方法で高めて強めてなんとする。

それよりもいまここに、ほれ目の前に存在している、この根本的絶対者、無限時空さえをも抱え込む無窮の大いなる存在の助けをそのまま借りたほうがラクじゃあねえか。

これの意向どおりに「おまかせで」生き抜くことこそが、使命なのではないか。

枝はいくらがんばって虚勢を張っても、枝である。

すぐに折れてしまう枝ではなく、大樹の幹によりかかるべきではないか。

みたいなことを、思うようになってしまったのでした。

そんなことがあったから、毎夜聖書を読むようになったというのもあります。

 

だから、というわけではもちろんないのですが、なにかを一心に求めて努力をしていくと、どこかのタイミングで「そんな状態」になっていくものなのかもしれないな、と思ったりもするわけです。

もしそうならば、仏教とキリスト教が似たようなことを言い出すことは、なにも不思議ではありません。

歴史的にインドから中東、ギリシャ、ローマにかけて想像以上の文化交流があったことは事実のようです。

しかし、もし仮に文化交流がなかったとしても、時間の問題で同じような位相にたどり着いていたんじゃないか。

物理的な接点がなければ思想が伝播しないというのは、ちょっと人間という存在をナメすぎているような気がしないもでありません。

だから、イエス様が仏教徒であったとしても、聖書に仏典からの引用があったとしても、なんら宗教的な瑕疵はなく、その価値も一切変わらないと思います。

いずれにせよ、神は神であり、愛は愛であり、人は人である。

 

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