カッターン……。
カッターン…………。
昨晩眠ろうとしていたら、妙な音が聞こえる。
季節外れの秋雨前線が停滞していて、歴史的豪雨の真っ最中である。
台風ではないがけっこう強い風も吹いているから、どこかの窓か壁に、何かが当たっているのかもしれない。
しかし、待てよ。
ぼくの家は、風が吹いたからといって何かが家に当たるような構造はしてない。
それに、音がけっこう大きい。
どこかの窓が開きっぱなしで、ブラインドやロールスクリーンがはためいているのだろうか。
普段なら、それでもべつに問題はない。
しかし今晩は豪雨だから、もし窓が開きっぱなしなら部屋がビチョ濡れになって大変なことになる。
面倒だがヨッコラショと起き上がって、寝ている2階のそれぞれの部屋を確認しにいった。
しかし、どこの窓も開いていない。
おかしいなあ、あんなに大きな音がどこから聞こえてくるんだろう。
もしかしたら1階なのだろうか。
そのとき、また「カッターン」という音が階下から聞こえた。
階段を降りていって、愕然とした。
うつ伏せに小さくうずくまった我が家の愛犬「たろう」が、玄関の三和土の上でヒクヒクと体を震わせていたのだ。
「どうした、たろう!」
普段は外飼いだが、真夏の暑い昼間や、今日のように豪雨だったり台風や雷がある日は家の中に入れている。
玄関ポーチに入れているのだが、それが今たろうは三和土に転落し、うずくまって体を痙攣させているのである。
いやな予感がした。
たろうは3ヶ月ほど前、尿管結石で手術を受けた。
いま12歳だから、犬としてはかなりの高齢で人間で言えば70歳ぐらいの「おじいちゃん」になるらしい。
昨年の年始ごろには、しばしば脚を引きずるから病院に連れていたっところ加齢によるものだと診断された。
獣医さんいわく、もしかしたらこの夏は越せないかもしれない。
幸い年を越せたものの、春には尿管結石で入院、手術。
かなりからだが弱ってきているのは確かだ。
そんなたろうが、玄関に転落してうずくまり、ビクビクと体を引きつらせている。
これは、まずい。
もしかしたら脳梗塞や心臓発作など、急性の病気に見舞われたのではないか。
駆け寄って玄関の電灯をつける。
そして玄関に降りて抱え上げようとしたら、たろうはゆっくりと顔をあげ、ぼくの顔を見た。
「窮」
悲しげな表情で、小さくうめく、たろう。
「どうした、大丈夫か! どこか痛む・・・・・・・・・」
たろうの体が目に入って、ぼくは思わず、目をむいた。
そして、
わははははははは
笑ってしまった。
たろうは、じぶんのリードで「ぐるぐる巻き」になり、身動きがとれなくなっていただけなのだった。
リードは玄関の下駄箱の扉の把手にゆわえてある。
リードがからだに絡まって短くなってしまったことで、たろうが動くたびに下駄箱の扉が開いたり閉まったりして、カタンカタンと音が出ていたわけだ。
おそらく解こうと努力したのだろうが、かえってよけいに絡まってリードのほぼ全部が全身に巻き付き、これ以上ないほど短くなって、下駄箱の直下でフリーズしてしまったのだ。
彼は、よくこういうことをやる。
犬というのはどうやら急激な天候の変化があるとウロウロする習性があるらしく、おそらく暗闇のなかでぐるぐる同じ場所を回っていたのだと思う。
それで脚にリードが巻き付いていき、それでも回りつづけていたものだからリードがどんどん短くなって身動きがとれなくなり、とうとう玄関の三和土に転落してしまったのだ。
以前は早朝、庭の犬小屋の前で「亀甲縛り」になったまま眠っているたろうを発見したこともある。
さっそくリードを解いてやったところ、たろうは無言でからだを「シバドリル」でふるわせ、ぼくの顔を見て「んフ」といい、おもむろに「ヨッコラショ」と玄関を上がって所定の位置に戻ると、そのまま何事もなかったかのように気持ちよさそうに眠ってしまった。
いつも思うのである。
あんなことになってしまったら、「キャン」とか吠えて、助けを呼べばいいのに。
しかしたろうはいつでも、吠えない。
リードが絡まってしまったら、助けを呼ぶでもなく、暴れるでもなく、じっとそのままにしている。
とくに今日はすぐ近くに人間がいるのだから、なんらかの声を発すれば、誰かがなんとかしてくれる。
それでもたろうは、いつもだまって、うごかない。
いったい、どういう心境なのだろうか。
すくなくとも「心地よい」ということはあるまい。
かなり窮屈で不愉快で、おそらく不安でもあるだろう。
その証拠に飼い主が近寄れば情けなく目を三角のタレ目にして、悲しげに「窮」とつぶやく。
解いてあげると、うれしそうに体をふるわせる。
「なんとかしよう」とは、あまり思わないのだ。
巻き付いて、動けなくなったら、動けないままで、じっとしている。
とくに、なにも、しない。
馬鹿だ、という言い方もできるかもしれない。
しかしいっぽうで「落ち着いている」という言い方もできる。
彼はきっと、信じているのだと思う。
いまはたしかに、苦しくて、つらい。
でもきっと、飼い主が、あのひとが、助けてくれるのだろう。
だっていつも、そうなんだもの。
どうしようもなくなったら、またあのひとが、たすけてくれる。
だから、動けないなら、動かなくていい。
動けないなら、動かないまま、眠って待っていればいい。
動けるようになってから、動けばいいだけさ。
獣医さんいわく、犬というのは「【いま】を生きる大天才」なのだそうです。
白内障で目がつぶれても、交通事故で下半身が動かなくなっても、彼らは先のことを考えて悲しむということはしない。
感情がないわけではない。
いま痛ければ泣くし、いま悲しくても泣くし、いま寂しければ泣く。
しかし、先のことを考えて、よけいな予測をして悲しむことはない。
事故で両脚を失った犬に小さな台車をつけてあげたら、彼はぶんぶんうれしそうに尻尾をふって、おおはしゃぎで全速力で走り回るらしい。
そこには脚を失ったことによる将来への不安など、微塵もない。
動けることに、すなおによろこび、飼い主が撫でてくれること、遊んでくれること、餌をくれることに、全身全霊でよろこぶ。
そしてからだが本格的にダメになっても、怒ったり恨んだり落ち込んだりはしない。
ある意味、聖者のようだ。
起きるか起きないか、まだ五分五分でよくわからない未来についてでさえ、ぼくたち人間は悩み、恐れ、悲しみ、怒る。
もうすでに終わって、いまは存在してない過去のことについてでさえも、ぼくたち人間は悩み、恐れ、悲しみ、怒る。
いますべきことは、ちゃんとしていないくせに、まだ起きていないこと、もう終わって操作のしようがないことに悩み、恐れ、悲しみ、怒る。
どっちが上等で、どっちが下等か。
火と電気と道具を使えて、心配が得意だからといって、それで霊の長といえるのだろうか。
「いま与えられているよろこび」をすなおによろばず、「まだ与えられていない苦難」「通りすぎた苦難」を妄想して苦しむような生き物が、霊の長といえるのか。
「いま」だけを見て、じぶんではどうしようもないことは早々にあきらめて、徹底的に「あるじ」を信じ、愛し、疑わないいきものが、下等だといえるのか。
犬に見習うべきところは、たくさんある。
ヒトよりも高貴なところが、きっとある。
まあ、濡れるとクサいけどな。
>でもきっと、飼い主が、あのひとが、助けてくれるのだろう。
>どうしようもなくなったら、またあのひとが、たすけてくれる。
ちょっと 涙 出そうになるじゃないですか …
かわいい。
たろうちゃん 元気に。
長生き してね。
あのひと の ためにも ね。˘ ˘*🐕
そして …
この お写真は
たろうちゃん なのかな ちがうかな
とっても
いい お顔 で
それこそ どこか 聖者 の それ みたい で。
この 表情 にも
こころ うたれる
かんじ したの でした …
˘o˘*
よろしければ。
カピバラさんも。
みて ください ね
下の方のみなさんのコメントも一緒に~ *
https://karapaia.com/archives/52215204.html
コメントありがとうございます。
写真は、よく似てますが本人(本犬)ではありません。
ぼくは写真が下手くそなもので・・・
カピバラも、かわいいですね。
じつはカピバラって、やさしいだけではなくて、けっこう「速くて強くて賢い」らしいですね。
https://www.gizmodo.jp/2017/03/ocn_mobile_one_capybara.html
あと繁殖力がむちゃくちゃ強いから、のんびりしていても自然淘汰されにくいんだそうです。
カピバラが絶滅するとしたら、経済活動の名のもとに、彼らの居住領域を侵食してしまったときかもしれないと言われていますね。
人間がいちばん、こわいですね。