成長なき繁栄 〜地球生態系内での持続的繁栄のために〜 / ティム ジャクソン (著), 田沢 恭子 (翻訳)
これをいま、読んでいるところ。
ずーっと疑問に思っていたことに答えてくれそうな予感がする。
高校生ぐらいのときに習ったけれど、資本主義経済というのは「未来永劫ずっと成長しつづける」ということが基本なんだそうです。
当時は「ふうん」ぐらいに思っていたけど。
いや、待て待て。
待てぇぃ!
「未来永劫ずっと成長しつづける」とか、んなファンタジーを、ええ大人が信じてやっとるのだろうか、本当に?
こんな理念、はっきり言うけれども、カルト宗教よりも胡散臭いやんけ。
え、マジでどうするん。
「金(キン)の量」は有限だし、「人の数」も有限で、「資源」も有限。
この世には無限なるものは一切ないというのに、理念だけは無限。
おかしいだろうが。合ってないだろうが。
そりゃあまあ、有限と言ってもかなり余裕はあるかもしれないが、そのうちいずれは枯渇するか、決定的に不足するんじゃないのかな。
そのへんはサービスとか、技術とかで、なんとか乗り越えて・・・・とかいう考えなんだろうか。
もしそうだとしたら、まるで「宝くじの当選を夢見るおじさん」と、あんまり変わらないんじゃないか。
よくテレビとかで見る経済学者さんとか大学教授さんとかが、本気でこんなファンタジーを信じているとかどうしても考えがたい。
「ずっと成長しつづける」なんて、おとぎ話もいいところじゃないか。
で、この本を見つけたのです。
「成長なき繁栄」
ぼくもすこし、思ってた。
経済のことはよくわからないけど、
「繁栄には、必ずしも成長は必要ないのではないか?」
繁栄という言葉の定義は必要かもしれないけど、とにかく、ずっと成長しなければ人間は食っていけないとか、必ずしもそんなわけはない、と。
もっと賢い方法があるんじゃないのか。
この本の冒頭にあったけど、
富裕国では、最低限の生活のニーズはおおむね満たされていて、消費財がさらに増えても、もはや物質的な快適さはほとんど変わらない。すでにたくさんのモノに囲まれているのに、さらに欲しがるのは、いったいなぜなのか?
いやほんとに、そうなんだよなあ。
結局「欲に依存した経済」である限りは、どんなふうにスキーマを変えてみたところで、結局同じことになるんじゃないか。
「成長し続けることが必要な経済システム」に乗っかっている限りは、結局同じことになるんじゃないか。
どう考えても、あまり明るい未来が見えない。
いままでの消費型経済に代わるものとして「循環型経済」というのも提唱されていたりする。
いままでの、原料→生産→消費→廃棄という「行きっぱなし」のリニア経済ではなく、ここに「リサイクル」という要素を付け足し、生産→消費→リサイクル→生産→消費・・・・という循環をベースにして、そこにスケールダウンした「原料」を差し込むというサーキュラー型経済。
一見説得力があるようだけど、よく考えてみたら、これは「資本主義経済=成長し続ける経済」からはまったく逸脱していない。
とても穿った見方をすると、資源の枯渇や環境への悪影響を配慮しつつも、結局は「成長し続ける経済」という基本理念は「変えたくない」がために、むりやり考え出したスキーマのようにも思える。
そういうことでは、ないのではないか。
もっと根本的に「成長する」という部分こそを、捨ててしまわないといけないのではないか。
アップグレード、アップデートを最善とする経済ではなく、ダウングレード、ダウンデートを基本とする経済があっても良いのではないか。
自動車を見ていて、思う。
確かに自動車というモノじたいは、社会には必要だと思う。
しかし自動車会社が毎年何万台も作る必要があるのだろうか。
また、あんなに高機能なクルマがほんとうに必要だろうか。
どうせ渋滞する高速道路で、時速100kmも出るようなクルマがなぜ必要なんだ。
ぼくは思うに、この世に生息しているほとんどの人間は「軽自動車」でじゅうぶんなのではないか。
むろん、輸送業やタクシーなんかはその限りではない。
しかし一般家庭で必要とされるクルマなんて、軽自動車かバンでじゅうぶんだと思う。
我が家はクルマを手放して3年になるが、いっさい、まったく不便を感じていない。
むしろよく歩くようになって、家族全員健康になった。
まあ、クルマがなくても生きていけるのはわりと都市部に住んでいるからで、電車バスが使えるからです。
これがもし電車もバスもない田舎なら、せめて軽自動車はないとかなり厳しいだろうとは思う。
だからクルマが不必要だ、というのではなくて、「そんなに高級なクルマとか、スピードが出るクルマは不必要じゃないのか」と思うのです。
パソコンもそうだ。
べつに人工知能の研究をしているわけでもなければ、そんなにえげつないグラフィックボードを搭載したPCなんかいらんだろう。
クソの役にも立たないゲームをするためだけに高機能で電力を無駄遣いするオモチャを持つのはいかがなものなのだろうか。
いらないといえば、いらないんだ。そんなものは。
しかし、ではなぜ売れるのかと言うと結局「欲」が中心でデカい顔をしているからなんですよね。
「もっといいモノを」
っていう欲こそが、いまの資本主義経済を支えているのは確かです。
しかし資本主義経済は、たぶんアルゴリズムとしては本質的にはかなりクソで、近々天井を打つような気がしてならない。
とくにコロナ禍を通じてそんな気がよけいにしてきました。
資本主義経済を絶対のものとすると、人の欲を肯定するどころか、「扇動」する必要さえ出てきます。
欲そのものを捨てることは、ほぼ不可能だとは思う。
しかし「わざわざ扇動する」というのは、経済のためには良いかもしれないが、その個人の幸福のためにはあまり良いとはいえないと思う。
際限がないアップデート欲は、環境だけでなく、個人の精神も破壊してしまう。
ぼくは個人的に、宗教観念が弱くなってからこんなことになったのでは、と思います。
仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、道教でも、ほとんど同じようなことを言っています。
すなわち「欲を捨てろ、抑えろ。すくなくとも、助長はするな」。
そして欲は、ほぼすべての宗教で「悪魔」と呼ばれています。
だから宗教の影響力が強い世界では、「もっといいモノを」という観念は罪であるし、ヒトとしてとても恥ずかしいこととされる。
しかし、今はどうだ。
「強欲こそ成功の秘訣」
なんて言うこともあります。
「もっと欲を持て」
みたいなことも言われたりします。
なんとなくだけど、これはすこし、悪魔的ではないかと思いませんか。
人の欲望と快楽と怠惰を餌とし、わが欲望をエネルギーとし、もっと上へ、もっと豊かに、高みをめざそう。
そんなことをするから、世界がむちゃくちゃになっていくし、ご本人さまも欲望の権化となって、「満足できない人」になっていく。
なにかが、どこかが、おかしいと思うのです。
人の欲に依存しない経済。
成長だけに依存しない経済。
そんな経済が、あっても良いのではないか。
そんな期待から、この本を読み始めました。
また読後感想文をどこかで書くと思います。
傲慢 と 強欲
そして
冷酷 を。
心底 から
ほんとう に
自覚 しない 限り
思い 知らない かぎり
悪魔 から
地獄 から
解脱 出来ない
そんな 気が して。
(_ _)
新型コロナはもしかしたら人類にいまの「傲慢と強欲」を思い知らせるために生まれたんじゃないかと、たまにそんな妄想をしたりしてしまいます。
「この世はデミウルゴスという悪魔によって支配されている」っていうグノーシスの考え方も、最近はなんだか説得力を感じたりもします。
そろそろ人類も「強欲をひとやすみ」してもいい頃合いんじゃないかな、と思ったりしますが、まあ、そうもいかないんでしょうね。いまのシステムのままだと、強欲を放棄したら、生きていけなくなる人が多いですし・・・じつは僕自身が、そうかもしれないです。