松任谷由実さんの「やさしさに包まれたなら」という歌にこんな歌詞があります。
小さい頃は神様がいて
毎日愛を届けてくれた
おとなになってから、「祈る」ということをあまりしなくなったなあと思う。
ひとつには「努力」ということが大事だと教えられて、自分で頑張ることが何よりも大事だと考えるようになったから。
あと科学という考え方は正しいと教えられたことで、ものごとを合理的、実証的に考えるようになったこと。
また、いろんな新興宗教の団体が暴挙に出たり、テロリズムのようなことを行うのをよく見たこと。
そんなことから神様とか仏様とか宗教とか祈りとか、そういうのは怪しげで非科学的で、妄想的で危険なものだと考えるようになった。
しかし非科学的だと考えられていた「祈り」について、科学的に検証してみようという動きもあるようです。
ハーバード大学やコロンビア大学で実験を行ったところ、結論としては「祈りには有意な効果が認められる」ということになったようです。
- 麦の発芽の実験で、祈られたグループの種子のほうの発芽率がはるかに高かった。
- 麦の発芽の実験で、祈る時間を2倍にした場合は、発芽率が2倍になった。
- はっきり『祈り』の対象を明確にして祈るほど、『祈り』の効果がある。
- 種子を用いた実験では、種子の数が多くても少なくても、結果は同じだった。
- 『祈り』の経験の長い人のほうが、浅い人よりも大きな効果を生む。
- 「こうしてください」と結果を求める祈りよりも、「お任せする祈り」のほうが効果が大きいことがわかった。
- 心臓病の患者で、「祈られた」グループの患者は、「祈られなかった」グループの患者に比べ、抗生物質を必要とした患者の数が6分の1であった。
- 祈られたグループでは心臓疾患により肺気腫になった人が、祈られないグループの3分の1であった。
- 祈られたグループでは人工気道を確保する気管内挿管を必要とする人はいなかった。一方、そうでないグループでは12人が人工気道を必要とした。
もちろんこの結果には反証もあることだろうけど、すくなくともどこかの宗教団体が意図的に行ったものではなく、科学的手法に基づいて「まじめに」実験したのは確かなようです。
個人的な経験としては、8歳のころ「川崎熱」という病気にかかり、入院先の先生から「失明する」と宣告されました。
母が毎晩徹夜でお寺でお祈りをしてくれていたそうです。
数日後、ぼくの熱は下がりはじめて、結局治ってしまいました。
先生いいわく「不思議なこともあるものだ。そんなわけはないのだが・・・」
上記の実験に併せて考えると、ぼくは「祈られたグループ」ということになる。
また、これは些細なことだけれど、ふと思うところがあって「朝夕の祈り」というカトリックの祈りをしてみたところ、非常に心地よい感覚をおぼえたことがあります。
とくに夕の祈りのほうの「きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんの恵みをお与えください」の部分で、胸があたたかくなる感覚があって、一種の幸福感をおぼえた。
「だれかのために祈る」ということは、苦行でも試練でもなく、単純に「快楽」であることを知りました。
そして約1週間後、不安定だった自律神経の具合が安定するようになり、高かった血圧がぐっと下がって正常値になり、イライラしたり、動悸がしたり、不安になったりということが格段に減りました。
ちなみにぼくはキリスト教徒ではなく、その他の宗教を信じているわけでもなく、べつに信仰心が強いわけでも、迷信深いわけでもありません。
祈りとか、神様とか、そういうのを「非科学的だ」と考えるのはもしかすると、短絡的に過ぎる可能性もあるのかもしれませんね。
人類数万年の歴史のなかで、「祈らなかった時代」なんて、もしかしたらほんのここ100年程度かもしれません。
世界的にも、祈らない民族はいない、といわれています。
ちなみに「ピダハン」という民族は「神」の概念がないから祈らないのだ、と言うひとがいます。
しかしこの本を実際に読んでみたところ、おそらくそうではないだろうと思われます。
というのも、たしかに「神」という概念を示す言葉はないが、「精霊」のような概念はあり、それもかなり強いようなのです。
それは村人全員に見えるものなのですが、外来の宣教師にはまったく見えなくて、「私には見えない」といったら村人全員がポカーンとして、ものすごく不思議がられたそうです。
「神」という概念はないものの、「精霊」という概念はあり、これは一神教的な神の思想がないだけで、シンプルなアニミズムの概念があるというだけなのかもしれませんね。
ことばがないからといって、祈りがないとは限りません。
むしろ「神と一体化した生活」であるからこそ、「外部の神にアクセスする必要がない」というだけなのかもしれませんから。
神様がいるとか、いないとか、そのへんをロジカルに議論したところで、確たる結論なんか出ない。
だからそんな不毛なことをするよりも、すなおになって、「信じるちから」を利用するほうが賢いような気もしますね。
祈ることで、不安が軽減され、神経が落ち着き、やさしい気分になり、ストレスが緩和され、健康に一役買うというのなら、やればいいだけではないか。
科学的に説明がつくことしか実行しないのだ、信じられないのだ、なんて意固地を張ってしまったら、ぼくたちは「生きてちゃいけない」ことになってしまう。
生命について、まだ科学では完全に説明しきれていないから。
科学で説明できなくても、ぼくたちは生きていて、いっこうにかまわない。
だから科学で説明できなくても、祈ったってべつにかまわぬ。
祈ることしかできない最悪の状態になっても、祈ることはできる。
そして祈ること、その行為自体に癒やしがあるというのなら、それこそ祈りは神様からのプレゼントかもしれませんよね。
人事を尽くしてから天命を待つとか、そんなまどろっこしいことをするヒマがあるのなら、まず最初に天にすっかり頼ってしまって、そのあとに補佐的に人事を行うほうが、アルゴリズム的にはスマートなのかもしれません。