風水は科学か迷信か邪教か

ネットで「エアコンとベッドの位置」などで検索すると、ひじょうにうざったいことになる。

いわゆる「風水」に関する結果が上位にわんさか出てきてしまうからです。

いわく、ベッドの上に突起物があると「気の流れ」が悪くなり、ひいては運が悪くなる、などなど。

生年月日から「本命卦」というの割り出し、その人に応じた方角に頭を向けて眠るのが良い、とするサイトもあります。

風水にはいろいろな種類があって、黒門派がいいとか悪いとか、そのへんの話をいっしょうけんめいにしている人もいます。

そして風水は迷信ではなく「科学である」と断言している人もいます。

 

まず、間違いなく言えるのは、風水は「科学ではない」ということです。

科学というのはできるだけ主観を排し、客観的な再現性を持つものを探す作業なので、この基本ができていないものは断じて科学とはいえない。

たとえば「南枕はよくない」という仮説があるとしたら、じっさいに南枕で眠る人たちを数百人ほど用意し、それ以外に北枕で眠る人を数百人用意し、その結果を分散分析などにかける必要があります。

その場合、実験を行う状態を統一しなければならなくて、気温や湿度、音、明るさ、間取りなど、考えられうるすべての条件をすべて一致させないといけません。

分析対象は血圧の変化や入眠までの時間、神経の活性レベル、活動性、脳波の変化など多岐に渡りますし、南枕を継続した期間も考慮せねばなりません。

そういった非常に面倒くさい手続きを経て、数学的統計的に有意な差があると認められてはじめて、その効果を「科学的に検証した」といえる。

しかし、そのような検証を行わず、「風水理論から導き出した仮説」のまま放置してあることばかりです。

また、結果についてもその記事を書いているひとや、その家族の個人的な感覚、あるいは数件から数十件程度の「レビュー」だけにその根拠を求めています。

また数百件の結果があると言っていても、季節や寝室の構造などがすべて統一されているわけではないので、有意か無意かを検証する母数には到底到達できません。

だからまず、風水について「科学である」と断言している人については、「大うそつきである」と断言してかまわないと思います。

 

ちなみに、インド風水といわれる「バーストゥ」では、このあたりのことを科学的に検証実験を行っています。

その手順が未熟である可能性もあるようですが、少なくともきちんと仮説と検証を行っているので、科学的姿勢で調査した、ということは言えます。

その結果、バーストゥでは「南枕が最も健康に良い」という結論を導き出しました。

しかしネットでよく見かける日本の風水はその逆で、「北枕が良い」と言っていることが多いです。

日本の風水は全く科学的な検証を行わず、経験や論理だけで仮説を撒き散らしているだけなので、対比のしようがないというのもズルい感じがします。

 

とはいえ、科学的ではないからといって、間違っているという根拠にはなりません。

「まだ」検証がなされていないだけで、今後大規模な科学的検証を行えば、もしかしたら有意な結果が導き出されないとも限りません。

ただし、対象が「運」というとらえどころのない傾向のようなものが対象である限り、その数値化は非常な困難が予想され、まともな実験はまずできないだろうと思われます。

したがって、風水というのは「科学にはなりえない」という宿命を持っている。

ということはつまり、いずれにせよ「風水は科学ではない」ということができます。

間違っているかどうかはわからないが、とにかく科学ではないし、科学にもなりえない。

 

では、迷信なのか。

ぼくは結論としては、迷信だと思います。

その理由は、科学ではないからということではありません。

迷信というのは、

誤った信仰。また、道理に合わない言い伝えなどをかたくなに信ずること。

なので、まさに風水がこれにぴったりなのです。

結局風水とは、非常に難解な五行や陰陽などの東洋哲学理論を持ち出していきてはいるものの、結局「言い伝え」の枠を出ていません。

この原因は風水そのものに原因があるのではなく、いわゆる風水師と呼ばれる人たちの怠惰な姿勢にあります。

見解の一致のための統合努力を、いっさい行っていないことによる。

伝統理論では今まで存在していなかった技術、たとえば電気やパソコンやインターネットなどの存在についてこれに陰陽五行の特性をあてはめるとき、まったく妄想としかいえない仮説に依拠してその特性を決めてしまうのです。

「パソコンは情報が入ってくるものなので、太陽が登る東に置くことでより良い情報を得ることができる」

などという仮説です。

しかしこれは根本的に誤っていることがあり、パソコンの位置とインターネット回線が家に入ってくる位置は必ずしも同一ではありません。

またw-fiやモバイル回線など、無線の場合はどうなるのか、という問題もあります。

そのあたりを真面目に真摯に解析することなく、ただ闇雲に「東」という結論だけを強引に持ち出してくる。

これこそがまさに「道理に合わない」言い伝えということができます。

 

こういった非道理な言説に至ってしまう理由は、風水師だけに原因があるのではなく、じつは最大の原因は「それを受け入れてしまう人がいる」というところにあります。

ニーズとウォンツの結果といえる。

「信じたいが、信じられるものがない」

このことが、人を風水に走らせるのだろうと思います。

バカじゃあるまいし、ほんとうは東枕にしたからといって彼氏彼女ができるだなんて考えてはいない。

西に黄色いものを置いたからと言って、裕福になれるだなんて思ってはいない。

しかしでは、今感じている、このなんともいえぬ不安を、どうすれば良いのだろうか。

何に頼れば良いのかがわからないから、風水のように「かんたんな方法」を信じてしまうのだと思います。

信じてしまったというよりも、騙されたというよりも、「信じたかった」。

いや、正確には「期待した」。

 

不安や悩みの受け皿が、存在していない。

 

このことが風水などという迷信をはびこらせてしまう、最大の要因なのだろうと思います。

科学が発達しても、ひとの不安を和らげてはくれなかった。

人工衛星のおかげで数日先の天気はある程度予測できるようにはなったが、10年先のわたしの未来は予測してくれない。

GoogleMapのおかげで、どこにいても「自分のいる場所」はわかるようになったが「自分の居場所」は見つけられない。

病気をしたり、トラブルに見舞われた時、こころを平静にしてくれる思想や哲学がない。

人と人は争わなくなったものの、信頼しあうことも減っていった。

ひとを助け合うはずの「絆」が、かえって人を傷つけることも増えてきた。

親子でさえ、他人のように冷酷な場合がある。

目立った争いはないけれど、人も、家族も、会社も、社会も、だれも、心の底からは信じられなくなってしまった。

なにも困っていないはずなのに、どういうわけか、不安が消えない。

そのような現代的な不安に、風水はまるで蛇のように、するっと侵入してきます。

ひじょうに単純で簡単な方法で幸福が得られると、甘言で拐かしてくる。

ずる賢い蛇が、こころのなかに、入ってくる。

 

信仰がないからだと思うのです。

神を捨てて、仏を捨てて、人と社会と、じぶんのちからだけに頼ろうとした。

しかし人も、社会も、わたしも、有限で不安定な存在。

調子が良いときもあれば、わるいときもある。

頼れるときもあれば、頼りにならないときもある。

何も信じず、なにも信じられなくなったとき、ひとは三界に家を失って、不安の海でさまよい続けてしまう。

 

科学のような、「こうすれば、こうなる」という単純ロジックに慣れてしまうと、もう神も仏も信じられない。

神は、仏は、願ってもその願いを聞き入れてくれるとは限らないからです。

そのような不安定なものよりは、まだ人や社会や、自分のような存在のほうが、まだ安定していると思える。

そう思うのは、神仏観による。

神や仏について、自分自身の幸福や安全を保証してくれるものだという定義をしていれば、確実に裏切られる。

よって、願いが叶わなかったら、神仏はいないと断言するようになる。

いっぽう、神仏について、わたしが幸福になりたいという欲すらも放棄して一心に仕えることが信仰であるという観念があれば、願いが叶わずとも無神論には至らない。

願いが叶わぬこともまた神仏の意向であると考えるようになる。

我が身に不幸があろうとも、神仏の教えにしたがって、人々の安寧を願う。

古来、信仰とはそのようなことを言った。

この状態にまで至ったひとは、もはや天下無敵なのですよね。

神仏と自分の「縦軸」と、人と自分の「横軸」で編まれた、強靭な繊維で守られて、不幸は不幸でなくなり、一切が「よし」となる。

ただし、この領域に至るためには「すべてを放棄」してしまわないといけない。

これは、とても、困難な道です。

 

むかしは、この困難な道を進もうとする人も多かったようです。

しかし、欲と衝動に完全依存した現在の消費型衝動型経済の下にあっては、そのような方向には進みづらくなりました。

自分自身を変えることは拒否し、環境を変えることのほうに関心が高まる。そのほうがラクなので。

 

風水とはまさにこれで、「わたしは変われないから、まわりを変える」という典型です。

自分自身の考え方や、生き方や、指向性や、欲は変更しようとはしないくせに、

枕の位置や、カーテンの色など、「わたしの外のもの」をしきりに変えようとする。

それが無意味なことだとわかっていても、おのれを変えることは困難なので、それに依存するようになる。

結果、なにも変わらない。

変わったのは、ほんとうは本人が変わったからだということには気が付かないままに、風水のおかげだと思うようになる。

 

よって、邪教だといえますね。

「じぶんが変わらなければ結局何も変わらない」という最大の真実を、いつまでも隠蔽してしまう教えだから。

欲から生まれ、欲に答えるようなものは、だいたいいつも、そんな感じ。

 

風水がわるいのではないし、風水師がわるいのでもないし、信じてしまう人がわるいわけでもない。

風水は、流行るべくして、流行った。

この現象の根本には「不信」がある。

だから今後、もっと増えて行くような気がしますね。

欲を称揚し、欲に依拠した経済システムの中では邪教が蔓延りやすくなる。

欲こそが、不安と不信を生むそうなので。

悪魔は欲と、欲から生まれた不安と不信を餌にして大きくなるけど、愛と安心の前では萎えて小さくなってしまう。

 

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