あやまりかたを、あやまると

メンタリストのDaiGoさんがどんでもない発言をしたとして、大騒ぎなっているそうで。

あくまで持論として、YouTubeで以下のような発言をなさったらしい。

僕は生活保護の人たちに、なんだろう、お金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。 生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしいと僕は思うんで。生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで(中略)自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。

もともと人間はね、自分たちの群れにそぐわない、社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きてきてるんですよ。犯罪者を殺すのだって同じですよ。犯罪者が社会の中にいるのは問題だしみんなに害があるでしょ、だから殺すんですよ。同じですよ

まあ、これは怒られるわなあ。

いくら炎上商法がビジネスモデルだったとしても、これはまずいわなあ。

なにがまずいかといって、民主主義の根幹でもある「人間の生存権」を根本から否定することになってしまって、解釈のしようによってはナチス的な優生保護の感じになってしまうから。

これについて謝罪したときも、

ホームレスの人とか生活保護を受けている人は働きたくても働けない人がいて、今は働けないけど、これから頑張って働くために、一生懸命、社会復帰を目指して生活保護受けながら頑張っている人、支援する人がいる。僕が猫を保護しているのとまったく同じ感覚で、助けたいと思っている人、そこから抜け出したいと思っている人に対して、さすがにあの言い方はちょっとよくなかった。

という発言をなさって、さらに爆発した。

そりゃあ、そうだわなあ。

火に油だわなあ。

この言い方だと「頑張っている人には価値があるが、そうではない人には価値がない」という話になってしまうから。

 

この一連の流れって、何かに似ているなと思いました。

新入社員が上司に怒られて、謝るたびに、さらに怒られる

っていう、アレに。

謝れば謝るほど、ドツボにはまっていく。

なんか、可愛そうになってしまいました。

 

共通しているのは

「肝心な部分を理解していない」

「怒られているポイントを勘違いしている」

っていうところで、そこが似ているなあと思いました。

そして頭が悪くて理解ができないわけではなくて、むしろ頭の回転は早いのに、もっとも重大な部分が欠落しているところも、とても似ています。

そのもっとも重大な部分というのは「愛」です。

 

DaiGoさんは、3度めの謝罪で、涙ながらに反省しているとして、こうおっしゃったそうです。

もし自分の母親が、生活保護を受けていたら、同じ発言を僕が聞いてどう感じるのか。僕がしてしまった心ない発言を、僕が聞いたらもちろん許せないだろうと思いますし、相手を殺したいほど憎んだりするだろうと思いました

まずいなあ。

これは最初の謝罪と併せて考えたら、結局同じことを言ってしまっているのですね。

 

私に関係がある人でないと、私は愛せないし、

私に関係があることでないと、私は理解ができない

 

わが母親がもしそうだったら、という「自身に利害がある存在」を想定しなければことの重大さが理解できないと言ってしまった。

それは導火線になった「ぼくにとってはホームレスよりも癒やしてくれる猫のほうが大事」という発言と、構造が同じです。

絶対、これでまた、ボロクソに叩かれるんだろうなあ。

なんかもう、ほんとうに可愛そうになってしまいました。

 

そうじゃなくて、最も中心にあるポイントは、

「利害のありなしに関わらず、あまねく人間には生存権があり、いかなる者もそれを犯してはならない」

ということであって、これを発展させていった先に「困窮者の社会的救済」がある。

道徳的、宗教的にいえば「見知らぬ他人にも愛を持て」ということですよね。

これにはその人が世の中の役に立つとか、経済に役に立つとか、誰かの役に立つとか、そういう「役割」の概念はなく、それとこれとはまったく別の話。

無能者は死ねという発想は、翻訳すれば「人間は社会の道具としての存在でしかありえない」ということになって、ディストピア専用の思想になってしまう。

その人の能力に一切関わらず、あらゆる人間には生存する権利がある。

これは「そういう考え方」とか「そういう思想」とか、そんな相対的な話ではなく、まさに「論外条件・大前提」なのであって、相対化してディベートで張り倒すたぐいのものではない。

 

親交があったらしい、ひろゆきさんとか、ホリエモンさんとか、その他いろんな人が擁護的なことも言っていましたが、それも全部が論点がずれていて、なんだか怖くなりました。

いま人気があると言われている、影響力が強い人たちというのが、この程度なのか。

もしくは、人気YouTuberが一人消えることで、じつは内心喜んでいるのだろうか。

「いや、そこじゃねえよ」って、言ってくれるひとが周りにいないというのも、可愛そうだなあと思いました。

 

もっと怖いなあと思ったのが、この炎上に食いついて「再起不能になるまで」叩こうとする人が出てくることです。

人前では借りてきた猫のようにおとなしくしているくせに、匿名のネットになると完全に獰猛な悪魔的毒蛇と化し、対象を殲滅するまで攻撃を一切やめない。

これはDaiGoさんの発言と結局同じこと、あるいはそれ以上の非道を行っていることになる。

DaiGoさんは「失言」をしただけだが、彼を攻撃して失墜させる人は「行動」をしている。

この構造は、まったくもって、なにひとつたがわず、「修羅」であります。

人を呪わば穴2つ、いずれ天罰が下るであろう。

 

失敗したひとを必要以上に攻撃すると、世の中がどんどん殺伐としていき「ミスをゆるさぬ」狭量な完璧主義な社会になっていく。

そうなれば結果的には、ほかでもない自分自身の首を締めることになると、どうして気がつかないのか。

責任追及を旨とする社会ではなく、ゆるしを旨とする社会を、どうして目指そうとはしないのか。

ひとをゆるすことは、じぶんをゆるすことと完全に同義であることに、どうして気がつかないのか。

どうして弱った者の揚げ足をとり、安っぽい勝利の快楽に身を寄せ、自身の魂を汚し、取り返しがつかないほどにまで徳を下げてしまうのか。

 

1日に20冊本を読んでも、本からは愛は学べなくて、謝り方を誤れば、知識は味方をしてくれない。

懺悔に必要なことは、「愛に気づく」ということだけなのかもしれません。

知の巨人よりも、愛の巨人たるべし。

これは、僕自身の反省でもあります。

 

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