「嫌なことはしない」
「楽をして生きる」
最近はこういうのも「良いではないか」と言われるようになってきた。
そういうのを推奨する本も、よく出版されているようだ。
とくに若くして成功した人たちが書くビジネス書や啓蒙書によく見られる。
ぼくも一時期、これに傾注していたことがある。
よく楽は苦の種苦は楽の種というが、そんなのはウソだ、と。
嫌なことを進んでやるべきだなんて、きっと間違っているんだ、と。
でも最近、ぼくは「楽は苦の種」は本当だったのではないかと感じている。
楽をしてもよい、嫌なことはしなくて良いというのは、若いときにだけ正しいと感じられることなのかもしれない。
つまり真理ではなく、相対的なディベート論なのかもしれない。
我が両親や近所や知人のご老人たちを見ていると、確実に感じる。
「楽は苦の種」
これは真理なのではないか、と。
僕が住んでいるところはいわゆる住宅地で、ご多分に漏れず高齢化が進んでいる。
ご近所のご老人たち、とくに男性は、大きく分けて2分される。
・まったく元気で病気の気配すらない人たち
・早くに車椅子などの世話になり、痴呆や循環器系、脳関係の病で不自由になっていく人たち
この2つのグループにどういった共通項があるかということを、素人ながらに観察をしてみた。
すると、おそらく統計的にも有意な差があるのではないか、という気がしてきた。
「元気なおじいちゃんの家は、かかあ天下である」
「病気になるおじいちゃんの家は、亭主関白である」
たとえばうちの家は一種のかかあ天下だと思う。
朝昼晩のメシは、親父が作ることが多い。
洗濯も親父がやっている。
いっぽうお袋は、ゴロゴロと寝そべっていることが多い。
もちろん母が父に命令しているわけではないが、家事全般はほとんど親父が行っているのである。
そして、ここに結果がある。
親父は年なりに軽い高血圧などの疾病はあるがまったくもって元気で、長距離も平気で歩くし、風邪もあまり引かない。
体力もなかなかある。
しかし母は足が弱っていて杖をつく必要があり、最近は痴呆の傾向も出てきた。
ここが痛い、あれが具合悪いと、年中不定愁訴がある。
これだけ見れば、個人差ではないかと思う。
父は元来丈夫な体質で、母は体が弱いのではないか、と。
しかし実情はそうでもなく、若い頃は母のほうが断然元気だったし体も丈夫だった。
父のほうがいろいろと病院の世話になっていたものである。
視線を外に向けてみると、似たようなことが散見されるのだった。
ぼくたちの世代の親というのは80代前後が多く、わりと男女差別が強く亭主関白な家が多い。
家事全般はおおむね奥さんが行っていて、夫はえらそうにふんぞり返っていたり、何もしないという人も結構見る。
そしてどうも、そういった亭主関白の家のおじいさんの多くが早々にからだの具合を悪くして、身動きがとれなくなっているようなのである。
統計をとったわけでもないが、同じ町内のおじいさんはみんな、そんな感じなのである。
また移動をクルマで行う習慣が多いひとの家も似たようなことになっている。
買い物に必ずクルマで行くひとは早々にくたばり、歩いて行く人は、いつまでたっても元気である。
綜合すると、
「日常で楽をしていないひとが、健康寿命が長い」
ということが、どうも言えそうなのだ。
家事というと、とくに若いひとでスポーツの経験があるひとは、
「そんなの楽勝じゃん」
と思いがちである。
しかしこれは、まったくもって誤解である。
継続日数が冗談ではないほど長く、またすっ飛ばすことができない業務なのである。
料理でも、なんだかんだいって、30分は立ち続ける必要がある。
掃除、洗濯、そういった行為も、毎日ちゃんとやろうと思ったらかなりの運動量になる。
この地味な運動を、1週間や1ヶ月、数年どころではない。
「生きている限り、毎日ずーっと行う」
のである。
いくらジムに通っているといっても練習時間はせいぜい2時間程度だろう。
ジョギングは何時間走ったのか。
ヨガは何時間やったのか。
「家事」に比べれば明らかに総運動量は少なく、また、「休むことが可能なタスク」である。
長い期間で比較すれば、その負荷量はまったく違ってくるはずだ。
それが「結果」に出ているのだと思うのだ。
ゴルフに行ってます、水泳やってます、毎日ラジオ体操してます、そんなご老人も多い。
しかし「毎日家事やってます」というご老人たちの元気さに比べれば、かなり劣ってしまうのだ。
かかあ天下で毎日あらゆる家事をこなすご老人というのは、もはやスーパーマンのような強靭さを持っていたりする。
とにかく、病気をしないのである。
とにかく、どこまでも歩けるのである。
とにかく、まちなかで元気な姿をしょっちゅう見かけるのである。
いっぽう、「ゴルフは趣味だが家事は嫁任せ」というようなご老人は、とても元気そうには見えるものの、いつのまにか消えている。
街で見かけなくなってしまうのだ。
聞けば「急に入院した」という人が多い。
いっぽう毎日スーパーで見かけるおじいちゃんは、もうかれこれ15年近く同じ様子である。
初めて見かけたころは70代だったから、もう90近いのではないか。
しかしそんなふうには見えず、70代の見た目のまま、重い米袋を担ぎしっかりとした足取りでスタスタと坂道を登っていく。
もしかしたらもうこの人はこの世の終わりまで死なないんじゃないか、とさえ疑ってしまうほど元気なのだ。
「嫌なことはしない」
「楽をして生きる」
こっれはやっぱり、長い目でみたらやっぱりダメなのではないか。
楽をしている人は、高確率でとつぜん病気になっているようなのだ。
もちろんこれはぼくが住む町内での観察だから、必ずしもそうだとはいえない。
しかし医学的にも、家でゴロゴロしていたり、座ってばかりいたり、突発的な運動しかしていない人というのは、高確率で突然死するもののようである。
巷ではいろんな横文字のエクササイズや意図的な運動が推奨しているけれども、そのようなことは特にやっていなくて、ただ毎日毎日家事をしっかりやり、買い物も徒歩で行くひとたちのほうが圧倒的に元気だ。
ジムやゴルフに行くよりも、かかあ天下の家で働かされているほうが、どうも健康寿命が長いようなのである。
そしてかかあ天下の家では女性のほうが早くくたばる。
「女性のほうが長生きである」と言われる。
もしかしたら、単純に女性のほうがよく家事を行ってきたからではないのだろうか。
世界的にも、だいたい男は喧嘩するか遊んでるかのどっちかで、家のことは女性がやるという社会が多い。
男女差別によって女性を家事労働に縛り付けてきたという経緯もある。
遺伝的特性とか生理学的性差とか、そのような小難しい話ではなく単純に「毎日よく働いている」ということが、健康寿命に直結していたのではないだろうか。
楽は苦の種。
ぼくは個人的に、これは真理だと思っている。
しゃらくさい、専門家の指導が必要な意図的な健康運動なんかをするよりも、ただ汗水たらして掃除せよ。
皿を洗え、洗濯しろ、料理しろ、買い物には歩いて行け。
暑い日も、寒い日も、雨の日も、雪の日も、風の日も、雷の日も、風邪をひいても、休むことなく、家事を行え。
この「苦」が、長い年月を経て老人になったときに効いてくるように思う。
嫌なことから、つまらないことから、面倒くさいことから逃げ出したとき、
人は生命を失うのかもしれない。
歳をとったから動けなくなったのではなく、動かなくなったから歳を取る。
きっとそんなことも、あると思う。