「オリジン」を今読んでいるところです。
やっぱりダン・ブラウンの小説は面白いなあ。
ダ・ヴィンチ・コード、インフェルノ、天使と悪魔、ロスト・シンボル。
全部読んだけど、全部面白かった。
個人的に宗教芸術や世界遺産に強い関心があって、科学にもかなり興味があるので、ぼくの志向にジャストフィットなのであります。
ただ問題は、面白すぎて寝不足になってしまうのだなあ。
ふと気がつくと1時間2時間平気で過ぎてしまって後悔することもある。
「オリジン」のテーマは結構哲学的です。
「人類はどこから来て、どこへ行くのか」
小説では、この疑問に対し、ある科学者が一大発見をした。
しかしそれを発表する場でなんと殺害されてしまい、世紀の大発見は闇に葬られる。
発表を恐れた宗教側の策略ではないかという疑いもあり、主人公は科学者が発見した「答え」を探し求める。
でもなあ。
この「答え」が、なかなか出てこないの。ジラすの。
ああもう!
はよせい!
と、怒りながら楽しんでしまうのでありますね。
「人類はどこから来て、どこへ行くのか」
この問いは始点と終点についての疑問で、本を読みながらふと思った。
「そして人は、なんのために生まれてきたのか」
この問について、宗教ではけっこう厳しめなことを言うことが多い。
なんのために生まれてきたか、仏教では「修行するために生まれてきた」的な考えもよく散見されます。
カルマ浄化のために、この世でただしく生きるべし、みたいなのもよく聞く。
いっぽうキリスト教やユダヤ教、イスラム教では諸説あるようだが「神の愛に気づくためである」としているのをなにかで読んだことがある。
また「贖罪のため」というような考えも一部にはあるらしいし、「ミッション」という神から与えられた使命を達成するためであるという考えもあるようです。
宗教的な定義では、わりとストイックな感じの意見も多いのでしょうか。
ちなみに仏教でも禅では「なんのために生まれてきたのか」という問についは「知らん」と答えそうな気がする。
また、人生になんの意味があるのかと問えば「意味なんかねえわ」と言いそうでもありますね。
いろいろあるけれども、とくに「わたしはなんのために生まれてきたのか」という問については結局、
「それは自分で見つけろ」
と言っているような気がしないでもない。
人類の起源と行く末についてついては、セム系一神教はけっこう明確に定義しているのかもしれない。
「神が創造し、最後には神に帰る」
的な考え方が多いような気がする。
いっぽうで、仏教はこの問についてはとくに意見はないように見える。
輪廻転生という思想はあるけど、これは無限なので「はじめもなければ、おわりもない」という、永劫無限の繰り返しであると考えられているようでもある。
この無限ループからの脱却を解脱と言っていたような気もする。
となってくると、宗教的な意見をもとに考えるのであれば、「神による創造を信じるか、輪廻転生を信じるか」の二者択一を迫られる。
神による創造説と、輪廻転生説の、どちらを信じるべきなのか?
知るか、そんなもん。
わっかんねえわ。
ていうか、どっちが正しいのか、だあれにもわからんのじゃないか。
永劫の昔に神が天地を創造したというのを、じっさいに経験し、記憶している人はこの世に一人も存在していない。
輪廻があるかどうかは死なないとわからないし、でも次に生まれた時には前世の記憶がぶっ飛んでいるらしいから、輪廻があるのかないのか、それも確かめるすべはない。
こういうのをまさしく「詰んだ」というのではないか。
たまに「前世の記憶がある」という話を聞いたり、「神の創造を天啓で感じた」とかいう話も聞く。
でもそういうのも結局は全部が完全に主観的な話で、客観的に証明する手段はない。
だから結局は「理由はどうあれ、信じるかどうかにかかっている」。
だれにもわからないことを、信じるということが、まずは宗教の大前提なのかもしれない。
ぼくはすこしあたまが悪いので「わからないことを信じる」ということが苦手です。
「わからないものは、わからない」
で、止まってしまう。
よく理知的で頭の良いひとに無神論者が多いということが言われるけど(「オリジン」にもそう書かれている)、でもぼくは個人的に、まったくの逆だと思う。
脳の機能が薄弱なのだと思う。
「わからないこと」を「理解できない」と「信じられない」というのは、とても原始的な手続き型プログラムで、あんまり高等とはいえない。
「わからないことでも、理解ができて、信じられる」ほうが、脳の機能としては相当高度なのではないか。
そもそも、いろんな本や論文をたくさん読んで理解したとしても、その本や論文が必ずしも正しいとは限らない。
正しいかどうか不明瞭なことについて、どこかで暫定的にでも正しいとしなければ話が進まないのなら、これは神による創造説を信じるのと大して差はないのではないか。
なんて考えてしまう、あたまの弱さがあるのですね。
だから結局、なんにもわからなくて、なんにも信じられない。
あたまが弱い人には、弱い人用の「説」があってもいいのではないか。
「人間は、あそぶために、うまれてきた。」
カルマ浄化とか、ミッション達成とかが信じられなければ、もうこれで良いのではないか。
平安時代に書かれたという「梁塵秘抄」には、こうある。
遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけん
遊ぶ子供の声きけば わが身さえこそゆるがるれ
人間は遊ぶために生まれてきたし、フザけるために生まれてきた。
子供が遊ぶ声を聞くと、私の体も勝手に動きだす。
「人間はあそぶためにうまれてきた」ということを、宗教定義に基づかなければ、論理的に否定することはできないような気がする。
だってそう考えるのは、ひとの勝手なので。
人間はあそぶためにうまれてきた、と考えたら、生きていくのが楽しくなるというメリットもありますね。
これは仕事してるんじゃなくて、遊んでるの。
これは勉強してるんじゃなくて、遊んでるの。
これは努力してるんじゃなくて、遊んでるの。
会社には、仕事をしにいくんじゃなくて、遊びに行くの。
学校には、勉強しにいくんじゃなくて、遊びに行くの。
筋トレしてるんじゃなくて、これは遊んでるの。
朝起きたら、遊びがはじまるの。
ぼくがしていることは、ぜんぶ遊びなの。
ぼく、遊んでるの。
まじめに仕事するために生まれてきたやつよりも、まじめに遊ぶために生まれてきたやつのほうが、幸せそうですからね。
どうしてわざわざ、ツラそうな顔をして、ツラいことをせねばならんのだ。
誰の指示なんじゃ、それは。
そうなんですよね。
ツラいと思うのも、ツラそうにするのも、ツラいことをわざわざ選ぶのも、ツラいことしていると思うのも、ぜんぶぜんぶ自分なのでした。
わざわざそうするなんて、ヒマなんか、わしゃあ。
ヒマなんなら、遊んどれっちゅうに。