ちょうどいい人

個人事業主という業態のせいか、知り合いには同じような個人事業主か、社長さんや経営者さんが多い。

仕事とは関係ないことでよく相談というか、悩みのようなことを聞くのだけれども、まるで示し合わせたかのように似た話ばかり。

 

ちょうどいい人材がいない

 

ぼくも経験があるので、これはもしかしたら「経営あるある」もしくは「人事あるある」なのかもしれない。

ほんとうに、ちょうどいい人がいないのだ。

 

むろん、人を採用するとなれば、有能であるに越したことはない。

しかし残念ながら、有能な人は「壊れやすい」のだ。

具体的にいうと、有能な人というのはウツやパニック、自律神経失調症など何かしらの神経・メンタル系の何かで壊れてしまうことが多い。

よく気が利くし、頭の回転も速く、理解力も高く、「察する」能力も高い。空気が読める。

仕事が速く、期限を遵守し、約束は必ず守る。

約束が守れない場合は、必ず事前に相談がある。

常識的だし、ユーモアのセンスもある程度ある。

些細なことに気がつくいっぽうで、ちゃんと大局的な視点も持っていて、世の中の流れにも敏感で、先見の明もある。

豪胆さも、ある程度持っている。

もし能力的に足らないところがあっても、それを補おうと努力をする。

 

いい。

いいのだ。

とてもいい。

しかし、こういう人は非常に高い確率で「壊れてしまう」のだった。

 

いっぽう、「壊れない」ひともる。

しかし残念ながら、神経的あるいはメンタル的に強いひとというのは、仕事ができないか、行動に問題があることが多い。

まったく気が利かなくて、ひとの気持ちを理解できない。

「察する」能力がなく、空気がまったく読めない。

仕事が遅く、「言われないとやらない」タイプで、期限を守れないし、よく遅刻するし、ミスが多い。

約束を守れない場合でも、連絡をしなかったり、とつぜん音信不通になることもある。

常識が乏しくて、しかしこれは「新しい価値を生み出すタイプの非常識」ではなく、単に常識が足らない。

なのに本人は、じぶんには高いクリエイティビティがあると思い込んでいる。

些細なことに気が付かないくせに、大局的な視野もなく、世間の価値観から大幅に乖離していることもあり、先見の明がない。とんちんかんである。

豪胆さだけは持っている場合もあるが、そのせいで発作的に仕事をやめたり、上司に喧嘩を売ったりする。

がんばっているのかもしれないがどうにも上達が遅く、仮に上達してもそれ以上なかなか成長せず、へんな方向に突っ走ったりする。

 

困ったちゃんである。

困ったちゃんなのだが、ほぼ唯一の長所に「壊れない」というのがある。

ウツだのパニックだの自律神経失調だのには無縁で、健康なのだ。

「無事これ名馬なり」とはいうものの、思い切って言わせてもらうが、ただ病気をしなくて元気なだけでは、居てもらっても困る。

クビである。

発狂する有能人材と、頑丈な無能人材のどちらが必要かと問われれば、やはりリスクを犯してでも発狂する有能人材がほしい。

しかし、リスクが高すぎる。

重大な仕事を任せたものの、突如として「客観的には理解不能な理由」によって、無能者と全く同一の状態になってしまうのである。

 

だから、ぼくたちは、切実に思う。

べつに取り立てて有能でなくともよい。

空気がある程度読めて、ある程度人の気持がわかって、先見の明もある程度あって、ある程度まじめで、ある程度気が利いて、ある程度賢くて、ある程度根性があって、基本的には約束を守ってくれて、基本的に連絡がつく人がほしい。

発狂する有能人材と、頑丈な無能人材を、足して2で割ったような人がほしい。

 

なかには、特殊なひともいる。

「頑丈な有能人材」

仕事が非常にできるのに、メンタルもピカイチに強い。

うそみたいだけど、いるのである。

しかし残念ながら、これは当たり前だともいえるけど、そういうひとはもうすでにどこかの会社でエラくなっていたり、じぶんで事業を起こしていたりする。

「雇う」ということが基本的に難しく、「組む」しか方法がなかったりする。

 

また、逆に特殊なひともいる。

「仕事もできなくて、メンタルも弱い」

不思議なことで、こういうひとはあまりお目にかからない。

就職活動じたいをしていないのかもしれないし、そもそも仕事をしていないのかもしれない。

 

で、思ったのである。

まるで他人事のようであるが、よく考えれば、ぼくもメンタルを壊している。

ウツにはならなかったが、パニックになった。

そして、「ちょうどいい人材はいないものか」と悩んでいる、その経営者さんたち本人が、一度はウツだのパニックだのをやっている。

「ビジネスマンは、1・2度胃を壊してからが本物である」

とはよく言うが、最近は「1・2度アタマを壊してからが本物である」ということなのかもしれない。

 

なんというか、だから思うのである。

システムのほうが、おかしいのではないか。

発狂するほど有能でなければまともに働けない、仕事にありつけない世の中というのは、どうもディストピアのような気がする。

いっぽうで、メンタルを壊さない行動原理を持っているひとは役に立たたないというのもまた、ディストピアのようである。

 

いちばん必要なのは、人材なのではなくて、

「無能な人でも稼げるシステム」

なのではないのだろうか。

どんなにいい加減で、あたまが悪く、感度も低い、そんな人でも稼げるシステム。

「発狂するほどクソマジメでなければ儲からないシステム」のほうにこそ、問題があるのではないか。

有能な人、という「人力」に頼ったシステム。

努力ではなく、仕組みによって儲かる枠組みを構築しないと、だれも幸せになれないのではなかろうか。

 

なので、決心したのである。

人を探すのではなく、仕組みをつくろう。

有能な人を使わないと仕事にならないというのは、仕組みがおかしいのだ。

有能な人でも、無能なひとでも、どっちでも稼げる仕組みを考えるほうにアタマを使うほうが良いのかもしれない。

 

人材は「人財」である。

なーんて、バカみたいなことを昔はよく言っていた。

よく考えたら、これはひじょうにおかしなことを言っていたのかもしれない。

この言葉じたいに「人の価値は能力である」みたいな意味が示唆されているではないか。

これは、ディストピアの考えかたではないのか?

 

発狂するまで頑張らないと一人前になれないとか、いったいなんのために生まれてきたんじゃ。

発狂するために生まれてきたんか。

発狂するまで努力しないと稼げないとか、いったいなんのために生まれてきたんじゃ。

発狂するために生まれてきたんか。

なんなんじゃ、その世界は。

 

いったい、どれだけ頭のわるいやつが作った世界なんじゃ。

ばかやろうでも、生きていける世界。

弱くても、生きていける世界。

そのために科学があり、技術がある。

ぼうっとして、なにもわからず、泣きながら、苦しみながら生きるのが好きなのなら、宗教でもやっておればよい。

苦しむ自分が好きなのなら、一生鏡を見てオナニーをしておればよい。

苦労の賛美歌は、アホとレガシーな差別主義者が歌っておればよい。

努力ではなく、辛抱ではなく、矯正ではなく、政治ではなく、仕組みによって自らを変えよ。

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