ある日とつぜん、思った。
「立ちたい!」
勃ちたい、ではないよ。そっちじゃなくて。
つまりスタンディングデスクで立って仕事がしたい、と唐突に思ったのである。
しかしぼくは、熟知している。
ぼくという人間は、そのように発作的に思いついてすぐに実行しても、結局は続かないのである。
ようするに、ただの思いつきであることがとても多い。
だから「これがしたい!」と思ってから、2週間ほど経過するまで待つことにしている。
2週間経ってもまだその想いが消えていないときは、大概ホンモノである。
「立ちたい!」
と思ってから2週間後に立って仕事をするようになったら、案の定続いている。
ガンバルとかシンボウとかコンジョウとかの「レガシー・システム」を用いるまでもなく、自然と続いているのである。
ガンバル系のレガシー・システムは、その場しのぎには良いのだがまったくサスティナブルではなく、必ずそのうち頓挫する。
頓挫するだけならまだしも、多くの場合によくない結果をもたらすのである。
だからそういうのは日頃からあんまり使わないほうが賢いようで、これはあくまで非常事態に使うものである。
さて立って仕事をするようになると、新たな欲求が生まれた。
「筋トレしたいっ!」
しかしぼくは、熟知している。
ぼくという人間は、そのように発作的に思いついてすぐに実行しても、結局は続かないのである。
なのでまた2週間「寝かせる」ことにした。
2週間後、その情熱はまだ健在であった。
なのでぼくは、筋トレを開始したのであった。
ふしぎである。
今回のように「発心を寝かせてから」筋トレをすると、意外と筋力が低下していないのであった。
じつは2年ほど前、同様に「筋トレしたいっ!」と思いたち、その日から即座実行に移した。
すると腹筋運動などたったの10回で腹筋が痙り、ぎゃあああと転げ回っていたのだった。
腕立て伏せなど、5回もできない。
若い頃は腕立て伏せは300回ぐらいやっていた。
この体たらくにぼくはブチギレて、その日から1ヶ月間、ゴリッゴリに筋トレを続けていった。
そしたら30回やそこらはできるようになったが、泣きわめきたくなるほどの筋肉痛になって、パニック発作まで連発するようになった。
結局頓挫し、残ったのはほぼ肉離れのような筋肉痛と、悪化したパニック障害であった。
このように、ガンバル系のレガシー・システムを用いて実行すると、結果は伴わずに害悪だけが残留するのである。
あれから2年。
今回は、発心からしっかり2週間寝かせて実行した。
するとどういうことなのか、腹筋も背筋も腕立て伏せも、10回はラクにできるのだった。
筋肉痛になる予兆は一切なく、あと10回やろうと思えばできそうなぐらいだった。
ほんとうに不思議である。
2年前ととくに状況は変わっていないはずなのに、筋力はアップしていたのだった。
もしかすると、立って仕事をするようになったことで、体幹がしっかりしてきたのかもしれない。
それ以外に思い当たることはないからたぶんこれが原因だとは思うが、腕立て伏せに必要な大胸筋や上腕三頭筋はなにも使っていないのに、以前より回数が増えているのはすこし謎である。
筋肉は筋膜で「つながっている」らしいので、体幹が強化されれば末端の筋肉群もそれなりに強化されるのかもしれない。
今回筋トレを志したのは、健康や美容の目的だけではない。
もっと根本的なことがあった。
「おのが身体を変えられないような者は、なにも変えられず、なにも手に入れられない」
ということに気がついたからである。
からだをコントロールできないような者は、じぶんも他人もコントロールできない。
からだを変えられないようなものは、運命も変えられない。
重力に逆らえないような者は、運命にも逆らえないのである。
異論はあるだろうが、決して認めぬ。
認めてしまうと、堕落するからである。
若い頃は、ボディビルなんかにはまったく興味がなかった。
ぼくが欲していたのは「ケンカに使える筋肉」だったからだ。
観賞用の筋肉などに意味はなく、見た目は悪くとも敵を殲滅できるパワーがあればそれでいいと思っていた。
いわば、現実的で実用的な筋肉を求めていた。
しかしトシをとり、ケンカなどという不毛な遊びには興味を完全に失うと、そもそもの定義がぐらついた。
ケンカをしない者にとっては、敵を殲滅できるパワーなど、それこそ非現実的で非実用的である。
齢も50を超えてくると、敵はもはや外部にはおらず、敵といえるものはだいたいじぶんの中にあることを知る。
というか、おのが心こそが、敵を生み出していくのである。
よってオッサンになってからは、むしろボディビルの筋肉こそが「実用的な筋肉」になるのであった。
だってもう、筋力を用いて誰かを張り倒すなど、絶対にやらないからである。
もしストリートファイト的な非常事態があったとしても、逃げる、謝る、交渉する、説得する、なだめる、スカす、こわいお友達を呼ぶ、警察を呼ぶ、などのさまざまな方法によって大概の問題は解決することが可能である。
張り倒すとしたら暴力的にではなく、法律的に張り倒すお年頃なのである。
だから50ヅラ下げたオッサンが、仮に相手がものすごく悪い暴漢であったとしても、殴ったり蹴ったり投げ飛ばしたりしたら絶対にイカン。
正義とか不義とかそういう問題ではなく、暴力的なケンカをしてしまった時点でそのおじさんは完全に人として「負け」である。もはやこの世のクズである。
だからオジサンにとっての筋肉の最も望ましいステータスは「観賞用」なのであるね。
使えなくてもいいから、「自身の意思と計画により創造成長発展形成させていったこと」こそが、最大重要項目なのである。
ボディビルを行うためにもっとも重要なことは「自己観察と理性と計画」なのだそうである。
闘争心など不要であって、それよりも内観を重視し、自己を律し、正しい生活を送ることこそが最大の基本だという。
この道はある種禅的でもあり、仏教的ですらある。
ケンカのための筋肉をつくるより、よほど健康的といえるだろう。
オジサンにこそ、筋肉が必要だ。
もうあちこちにガタがくるころなので、そのうえに筋肉まで弱ってしまったら、そのうちスライムみたいになってしまうよ。
「ぼくはわるいスライムじゃないよ」だなんてオジサンが言ってもあまり可愛くないし、きっと仲間にも入れてもらえないだろう。
オジサンという生き物は、孤独である。
諸行無常ということを身を以て知るお年頃だからである。
妖精のようだった妻も今や妖怪となり、家族も仲の良い友も死の淵までは同行してくれないことを知っている。
花の命は短くて、うら若き美しい女どももいずれは怪異に変化することを熟知しているから、キャバクラなんかに行っても歓喜より寂寥のほうが凌駕するようになる。
親身に話を聞いてくれるともがらも、本質的には自身の悩みのことで精一杯であることを熟知している。
全面的に忠誠を誓ってくれるペットは、必ず先立っていく。
人とは本質的に孤独であることを思い知るようになる。
しかし我が身の上で育て上げた筋肉は、衰えはするものの、死の淵まで裏切らず必ずついてきてくれる。
ソロでも寂しさに負けず生きていけるよう、筋肉はできるだけつけていこうと思う。
オジサンにとっては、筋肉こそが生涯の友なのである。