生きるとは、戦うことと見つけたり

この記事は、ウケない。

かれこれ1000件近くの記事をここで書いてきたが、人気のある記事には共通点がある。

・枝葉末節のノウハウを書いたもの

・ただ笑えるもの

・ラクになるための考え方

・癒やされる考え方

・世の中の不義に対するグチ

 

いっぽう、なぜかウケない記事の共通点はこれの真逆である。

・本質的で重大なこと

 

面白くないからである。

そして、癒やされないからである。

一時的なかりそめの安寧を求めるのが人の心理というものなので、当然なのかもしれない。

だからこの記事は、ウケない。

でも書く。

 

生きるとは、戦うことである。

 

ふと気がついたのである。

というか、思い出した。

生命とは、戦うことと完全に同義なのであった。

 

この当然至極のことを否定していた最大の理由は「希望」であった。

争いも心配もなく、安寧で、平和で、ニコニコハッピーで安楽な世界を希望していた。

戦うことから、逃げたかった。

弱いじぶんを、かばってくれる考え方が欲しかった。

仏教だの哲学だの小難しい言い訳をコレクションし、この明確な事実を隠蔽しようと必死になっていた。

 

だから、精神が壊れていったのだと思う。

事実から目を逸らせ、お花畑な理想郷を夢想し、現実から遊離していた。

そのことで、さらに弱く、はかなく、自閉していった。

 

この世のすべてのいきものは、戦っている。

戦っている。

戦わない生き物など、いない。

カピバラやコアラなどの愛らしい動物は争わないように思ったりもするが、それはメディアから受けた洗脳である。

彼らはじつは、凶暴で凶悪な一面を持っている。

手のひらに乗るくらいちいさなちいさな小鳥でさえ、毎日外敵と命がけの戦いを繰り広げている。

 

戦争がなく平和に暮らしているように見えるぼくも、戦っている。

内臓諸機関が、細菌やウィルスと戦いながら生きている。

微生物をぶっ殺しながら生きているのである。

 

「平和」などという机上で生まれた屁理屈と理想論に洗脳されてしまったので、見えなくなっていたのだと思う。

妄想であった。

事実は目の前にあり、いのちとは、戦うことを避けては成り立たない構造体なのであった。

 

パニック障害やウツ、自律神経失調症、その他各種の神経・精神的不具合が、筋トレなど強度の高い運動を習慣化することで大幅に改善するというのは、おそらくここに原因があるのだと思う。

筋トレなどは「つらい・めんどくさい」ことの代表のようなことである。

その面倒なことに立ち向かうという「戦う」姿勢、重力に「挑む」という姿勢こそが、精神を正常化させるのではないだろうか。

戦う精神が、目を覚ますからではないか。

 

思えば、ぼくがパニック発作を初めて起こしたときは、平和の絶頂期でもあった。

結婚し、子どもが生まれ、マイホームも手に入れ、昇進し、いわば人生での最高潮ともいえる時期だったかもしれない。

医者はみんな「ストレスだ」と言っていたが、どうしても腑に落ちなかった。

というのも、イヤだと思うことなど何もなかったからである。

家族関係でも仕事関係でも人間関係は良好で、仕事そのものも楽しかったし、やりがいもあった。

むろん楽しいことばかりではなかったが、逃げたくなるほど辛いことがあったわけでもない。

だから「ストレスが原因だ」と言われても、まったくピンとこなかった。

ぼくは、ここから泥沼にはまっていくことになる。

「ぼくは自分でストレスがないと思っているが、『感じていない』だけなのだろうか。もしそうだとしたら、ぼくは自身の『認知そのもの』を正常化しないといけない」

などと考え始めてしまったのである。

そこから精神世界や哲学、宗教などの不可解な世界に足を踏み入れて、暗黒世界をさまようことになっていく。

 

そうではなかったのかもしれない。

ぼくは確かにあの時期、絶好調を迎えていた。

そのときに「何を考えていたか」ということにも、注目すべきだった。

可愛い妻子と仲の良い仕事仲間に囲まれて、ぼくは確かに、思った。

ぼくの戦いは、終わった

 

いいや。

終わってなんかない。

全然、終わっていなかったのである。

なのにぼくは、社会的な些細な成功をもって「もう戦わなくていい」と決め込んでしまったのであった。

これが「反自然」だったのかもしれない。

いのちとは、戦うことである。

なのに意図的に戦うことをやめてしまったせいで、ぼくはいのちを失いかけていたのかもしれない。

実際にそれからは細菌に弱くなり、すぐ風邪を引き、寒暖差に弱くなり、すぐに疲労し、アレルギーを多発し、生命体として弱くなっていく一方だった。

この方向性は、ヨガや仏教などの「癒やし系の思想」に傾注するほどに、どんどん加速していった。

なにをやっても、改善しなかった。

 

しかしある日、決意した。

「200日連続座禅」

「2年間連続掃除」

これを企図し、実行していった。

するとふしぎなことで、何をやっても治らなかったのに、症状は改善していったのであった。

座禅が効いたのか。

掃除が効いたのか。

当時はそういうことを、考えた。

でも、それだけではなかったように思う。

ぼくは明確に「宣戦布告」をしたのである。

いかなる理由があろうとも、体調が悪かろうとも、発作が出ていようとも、必ず1日20分間は絶対に座禅をする。

いかなる理由があろうとも、体調が悪かろうとも、発作が出ていようとも、必ず1日1回は、掃除をする。

つまりぼくは、ぼく自身にケンカを売ったともいえる。

それまではおのが神経を腫れ物のように扱い、やさしく、無理をしないように、そーっと、そーっと生きていた。

それを放棄し、「いかなる理由があろうとも」という絶対条件のもとに、決め事を敢行したのであった。

 

そしてその後、筋トレを始めると、さらに調子は良くなっていく。

「やりたくない心」「ラクをしたい心」に対し、明確に立ち向かったからではないかと思うのだ。

「戦った」からではないかと思うのだ。

わが心に戦いをいどみ、勝利するたびに、細菌やアレルゲンに強くなっていく。

寒暖差や環境の変化、妄想や不安に強くなっていく。

 

ここに至り、10年の遅れをとってようやく気がついたのである。

気が弱いのは、筋力が弱いからである。

筋力が弱いのは、気が弱いからである。

重力に逆らえないものは、いかなるものにも逆らえない。

おのれの心を制御できないものは、だれも、なにも制御できない。

おのが体を変えられないものは、人生を変えられない。

おのれに負けるようなものは、世の中にも負ける。

 

抗うのである。

戦うのである。

生き抜くのである。

何度倒れても、立ち上がるのである。

負けても、負けても、何度負けても、挑むのである。

勝つまで、何千年でも、何万年でも、戦うのである。

勝つのである。

なにが、どうあっても、勝つのである。

そういう「想い」のようなものが、すこし顔を覗かせる。

 

このような指向性は、仏教的には誤っているように見えるかもしれない。

しかし、どうだろうか。

あきらめる、とは、どういう意味なのだろうか。

 

生きるとは、戦うことである。

 

あきらめるとは、この明確な事実を「割り切って」「受け入れる」ということなのではないのだろうか。

「みんなニコニコハッピーな世界」などという、白痴のような妄想を断捨離する、ということではないのだろうか。

 

人は生まれてきたら、必ず戦わなければならない。

必ず、戦わなければならない。

そして、強くならねばならぬ。

ぜひ、強くならねばならぬ。

せひとも、どうあっても、強くならねばならぬ。

 

弱く生まれてきたものは、ラッキーである。

慢心が少なく、努力を知り、少しの努力でも以前より強くなりやすいから。

強く生まれてきたものは、逆境である。

慢心しやすく、努力が苦手で、少々のことではそれ以上強くなれず、弱くなるちからも強いから。

よって双方ともに、総合的には均等である。

いずれにせよ、一切衆生は勝たねばならぬ。

一切衆生は、強くならねばならぬのである。

 

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