優越的安心

もっとすなおに、もっとシンプルに考えよう。

最近はそう思うのである。

 

生きていく上で、「安心」はとても大事なことである。

これがあるとないとでは、雲泥の差があるといっても良い。

お金は安心を買うためにも必要であるが、いくらお金があっても安心がなければ、その人生はあまり良いものとはいえない。

 

では、安心とはなにか。

いろいろな種類の安心があるが、そのうちのひとつに「優越的安心」というのがあるように思う。

つまり「私はほかの誰よりも勝っている」と感じることによる、安心である。

ぼくは最近、この優越的安心こそを、もっと重視すべきではないかと考える。

一般にこの種類の安心は下等であると考えられがちである。

優越的安心を手に入れたいがために、マウントを取ろうとする人も多い。

現実世界だけでなくSNS上でも「イケているワタシ」を演出している人は多く、これもあまり良い評価を受けない。

だれかと比較した相対的な優越による安心感よりも、いわゆる「真理」に近いような「絶対的安心」を求めるほうが、より高度であるとする定義もあるようである。

この定義には異論はない。

絶対的安心を手に入れることができれば、それに越したことはないからである。

 

しかし問題は「どうすれば絶対的安心が得られるか」という方法論である。

これを得るために、古来より多くの哲人が模索を続けてきた。

しかし、その特異点に到達できた者は非常にすくないのが現実である。

まさに狭き門、茨の道であって、多くの者はその特異点には到達できなかったのである。

到達しにくいからといって、諦めてしまうのはちがう、という考え方もある。

確かにそうだ。

しかし、過去の偉大な哲人でさえもなしえなかった偉業を、一般の凡夫がやすやすと成し遂げられると考えるのは、ほとんど「妄想」であるとも言えるのではないだろうか。

 

「優越的安心」を、肯定してしまえば良いのではないのか?

すなおに、シンプルに、そう思うのである。

わたしは、ほかのだれよりも、すぐれている。

そう感じられる「明らかな事実」を積み上げていくことに、いったいどんな不具合があるというのだろうか。

逆に、

わたしは、ほかのだれよりも、劣っている。

そう考えることのほうが、よほど悪いことが多いような気もする。

「ひがみ」「ねたみ」が増えるからである。

自己肯定感が低減し、ねじくれた性質を帯びやすくなり、幸福感を得られない。

いっぽう、

わたしは、ほかのだれとも、同等である。

そういう考え方にも、落とし穴がある。

人と人には本質的な差はないという考え方は耳あたりがよく、道徳的にさえも感じられる。

しかし現実世界を見渡してみれば、これは「定義」の域を超えることは決してなく、一種の理想論に過ぎないことがわかる。

人には確実に「差」があり「貴賤」がある。

生まれながらにして平等なのは「生存権」だけであって、それ以外はまったく平等ではない。

いかなる理想的な平等・公平な社会環境に置かれたとしても、人は必ず他人との微細な差異を発見し、その優越に一喜一憂する。

程度の差こそあれ、他者との差異によって「安心」がぐらつくことがある。

これを一切放棄できたと言い張るひとは、現実から目をそむけ、理想に遊離しているだけのことが多い。

解脱とは程遠く、ただの逃避によって偽物の超越を擬似体験している場合がほとんどなのである。

 

そんなややこしいことをして、いったいどうなるというのだろうか。

ぼくは最近、まどろっこしい実現不可能な理想論に遊ぶのではなく「現実」をもっと見据えるべきではないかと考えるようになった。

すなわち、優越的安心を得るための努力を積極的に賛美し、実行するほうが良いのではないか。

確実にマウンティングできるように、自己練磨をしていけば良いのではないのか。

からだを鍛え上げて、「物理的にだれにも負けない」肉体を構築すれば良いのではないか。

すなわち、強くなるのである。

 

ぼくは幼少の頃かなりの病弱で、こころも、あたまも弱かった。

未熟児で生まれ、入退院を繰り返し、医者からもあまり長生きはできないだろうと言われていた。

あまりに虚弱なので、運動も禁止されていた。

そのころのぼくは、子供ながらに将来に絶望していたものである。

こんなに弱い心身で、医者の世話になりながら生きていっても、きっとなにも良いことはないだろうと感じていた。

折しも当時は白痴じみた「不良」なるものの全盛期で、道端で血みどろのケンカが横行し、学校の窓ガラスが不良生徒によって全部割られるような不穏な時代でもあった。

こんなに恐ろしい世界で生きていく自信は、一切なかった。

そこである日、覚悟したのである。

ぼくに残された道はおそらく、

・この弱いままに生きて、弱いままに死ぬ

・強くなる努力をすることで、死んでしまう

この2つであろう、と。

ぼくは、後者を選んだ。

どうせ死ぬのなら、弱いままで強いものの餌食になって死ぬよりも、すこしでも強くなる努力をして、その努力のせいで死のう。

そのうがまだ「マシ」のような気がしたのだった。

 

そこから、学校中でたくさんの先輩に声をかけて「この学校で、いちばん怖くて厳しい部活はどこですか」と聞きまわった。

今思えば相当へんなやつだが、返事はすべて同じだった。

「それは柔道部だ。」

ぼくは入部を決意した。

しかし医者にも両親にも強硬に反対され、医者などは「死んでも責任がとれない」とまで言った。

母親はとうとう泣き出す始末であった。

しかし親父が言ったのである。

「10年間柔道を続けるつもりで、絶対にやめないのなら、許してやろう」

ぼくは約束し、入部することになった。

10年といえば引き下がると考えた親父の目論見は外れた。

なぜそんな約束をしたかというと、10年もなにも、練習だけで早々に死んでしまうと思っていたからである。

しかし皮肉なものであった。

最初の頃こそしょっちゅう高熱を出して学校を休んだものの、そのうちに熱を出さなくなったのである。

それだけではない。

日に日に頑強になっていって、中学2年生のころにはクラスでも最も体力がある人間になっていた。

ある日、転機が訪れた。

いつもどおり部活を終えて帰路についていると、高校生のいわゆる不良3名に絡まれたのである。

ぼくは柔道部ではあったがヒョロヒョロで、高校生に比べれば、か弱いガキだった。

金を出せと胸ぐらをつかんできたのだが、ふしぎなことが起こったのである。

ぼくを引き寄せようとしたのに、掴んできた相手の方が、ぼくにもたれかかってきたのであった。

つまり、ぼくが「動かなかった」のである。

考えてみれば当たり前である。

日夜胸ぐらをお互いつかんで引っ張り合い、投げ合う練習をしているのだから、そのへんの高校生が引っ張ったところで、びくともしないのである。

みんながぼくをつかんでどうこうしようとしたが、一切動かない。

すると彼らは、

「もうええわ!」

といって、去っていったのであった。

 

転機である。

ぼくはこのとき、知ったのだった。

「不良は、弱い」

ぼくが最も恐れていた人種たちが、圧倒的に弱いことを知った。

考えてみれば当たり前で、こちとらは腹筋背腕立て伏せ、ランニング、ダッシュ、乱取り、試合と、毎日毎日、徹底的に鍛えているのである。

ヤクザでも怖がるような「鬼監督」に、血が出るまで殴られ続けているのである。

いっぽう不良どもは、見た目が異様で声もでかく、強気な態度をとってはいるものの「ただの帰宅部」なのである。

強いわけがない。

このときぼくは「圧倒的自由」を手に入れた。

そもそも人見知りで気が弱く、とくに不良のような人間がとても恐ろしかった。

でもぼくは、知ってしまったのである。

「殺せる」

殺せるのである。

ぼくが最も恐れていた人間どもは、ぼくが殺そうと思えば、本当に殺せてしまうのだ。

いつ殺されるだろうかとヒヤヒヤしていたのが、バカのように思えた。

ぼくを殺すのは、あいつらではない。

ぼくは、狩られる側ではない。

おれが、あいつらを殺す側なのだ。

おれが、狩る側なのだ。

これを機に、ぼくの人見知りは霧消した。

人のことが、なんにも怖くなくなったのである。

なぜならば、万が一不穏なことになっても、相手を殺せるだけのパワーを得ていたからである。

ふしぎなことで、それだけの自信がつくと、不良どもが可愛く見えてきた。

意趣返しでいじめてやろうなどとは、考えなかった。

かわいそうに、ああやって虚勢を張っているのは、怖いからなんだろうな。

ほんとうは、気が弱くて自信がないから、ああなってしまったんだ。

 

「圧倒的自由」を手に入れたぼくは、学業成績も向上していった。

ぼくが勉強に手をつけられなかった理由は、将来への絶望だった。

勉強をしたところで、お医者さんが長生きできないというのなら、むだじゃないか。

そう思っていたから、勉強なんかしなかった。

俄然、ぼくは勉強に熱が入った。

ぼくには「将来」があるかもしれない。

そう思ったら、勉強も苦でなくなった。

なにより、あれだけつらい練習を日々乗り越えているのである。

そのへんの何もしていない、弱々しいクラスメートなんぞに、勉学でも負けるわけがない。

そういうふうに思うようになった。

 

そうなのである。

「圧倒的自信」が身につくと、「圧倒的自由」が手に入るのだった。

そしてこの「自信」、能力とか、知恵とか、センスとか、お金とか、そういうのもあるかもしれないが、じつは最もプリミティブなのが「生き物としての強さ」だろうと思う。

単純に筋力が強く、相手を殺せるパワーである。

それを獲得すると、この世からは恐れるべきものの約半数が消滅するのである。

天災や病気、戦争には、さすがに勝てない。

しかし「そのへんのやつら」には、絶対に負けないのである。なんなら、殺せるのである。

たしかに原始的で、程度の低い自信である。

しかし原始的ということは、つまり「潜在意識に直結した自信」なのである。

人間が、根本的に変わってしまうほどの自信なのである。

ぎゃくに、これを失ったとき、人間は根源的な自信を喪失する。

 

「マウンティングはよくない」というのは、なぜか。

だれがそう言っているのかを見れば、その答えは一目瞭然である。

マウンティングを厭うひとたちは、マウントをとれないから、嫉妬しているのである。

つまり、マウントされた側の意見なのである。

だから、そんな意見には耳を貸さなくて良い。

あくまで「片方の意見」だからである。

 

ぼくは確実に、思う。

マウンティングするべきだ。

そしてできれば、頂点に君臨すべきである。

できる、できないは、問題ではない。

「マウントしようとして、自己練磨する」

というところにこそ、意義がある。

下から数えて2段めを目標にして自己練磨をしても、意味はない。

頂点を目指して自己練磨することで、はじめて「中腹」あたりにまで行けるというものである。

よのなかの、努力をせず、逃げてばかり、ラクをすることばかり、傷のなめあいばかり、癒やしばかりを求めて、やさしさとフワフワとカワイイを好む有象無象のはるか上空に、決死の覚悟で自己練磨を重ねた鋼鉄金剛大魔王が白光眩しく堂々と君臨するのである。

「諸行無常、頂点をとっても、結局は虚しいものである」

などという哲学的なことは、頂点を制覇したものだけが言って良い言葉である。

なにもなしとげていないような者が、妙ちくりんな思想や哲学に影響されて、悟ったふうなことを言うのは、傲慢にすぎる。

 

優越による安心。

これは、あまり否定すべきではないと思う。

結局人間は、なんだかんだいって、人間なのである。

勝ったらうれしいし、負ければ悔しいが、「どうせ勝てない」と思うことが、何よりいちばん苦しい。

えらそうなことを言っていても、結局は原始的衝動を無視して生きていくことはできない。

聖人君子など、ファンタジーの世界の話である。

本能は、押さえつけても、無視してもいけない。

原始の願いは、いさぎよく肯定し、そのうえで行動すべきだと思う。

「どうせ勝てない」から「勝てるかも」へ。

「勝てるかも」から「勝った」へ。

勝利は自信の論拠であり、自信は努力によってこそ培われる。

この大理大道を否定するのは大抵、弱虫なのであった。

 

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