やさしさよりも強さを

小学校の担任の先生がぼくにくれた「贈る言葉」に、こうあった。

 

「やさしさを捨てて、強い人になりなさい。」

 

卒業当時、これはわりと衝撃だった。

というのも「やさしいことは、いいこと」という考えがあったからだ。

当時放送されていた「日本昔ばなし」でも、やさしい人を称賛し、やさしい人が結局トクをするような内容の話も多かった。

ぼくの母親も、「やさしい人になってほしい」と言っていた。

 

やさしさと強さというのは、わりとメジャーなテーマでもある。

この議論においては結局「本当のやさしさには強さが必要」とか、「ほんとうに強いひとは、やさしい」「中途半端なやさしさは、やさしさではない」みたいな、なんだかつまらん話で落ち着かせようとすることが多い。

ちょっとした変化球では「本当の強さは、しなやさである」みたいなのもある。

どうなのだろうか。

ぼくはいまいち、このへんの言説には納得がいかない。

というのも、このような結論を聞いたときにじぶんの中で起こっている情動反応を観察すると、どうも「自己弁護」の方向性があるように感じるからである。

つまり、ほっとするのである。

まず「やさしさ」を肯定し、その補完要素として「強さ」を定義している。

元来やさしい人にとって、やさしくなることは児戯に等しい。

カンタンである。

そうか、じゃあぼくに必要なのは、「強さ」を追加することなのか。

そのように考えたら、なんとなく、可能性があるように感じる。

 

また、これに類することで「厳しさ」に関する議論もある。

やさしさと、強さと、厳しさ。

この関係性は三すくみなのか、あるいは共存可能なのか、あるいは相互補完的なのか。

これも結局は「厳しさには、やさしさが必要」などというような、わかったような、でもよく考えたらよくわからないような結論をよく聞く。

この言い方にも、どこか自己弁護的なものを感じてしまう。

 

結局は、よくわからない。

よくわからない理由は、これらは全部「一般論」だからだと思う。

一般論ではなく「この議論の主体は誰なのか」ということを定義すれば、すこし道筋が明確になっていくようにも思う。

つまり、「やさしさの豊富な人」が、より高度な人間性を獲得したいという目的があった場合に、「やさしさと強さ」をどう考えるのか。

この場合、一般論にありがちな「やさしさ肯定」では、無理があるのではないか。

なぜならば、やさしい人というのは、「やさしい」というOSの上で、あらゆる処理を行ってしまうからである。

やさしい人は、行動原理も思考原理も「やさしい」のである。

だから、「本当の強さとは、やさしさである」ということを、「やさしいOS」で考えると、どうしても「やさしさ」のほうに傾注していってしまう。

 

大前提として、やさしさと強さの両方を持つことが望ましいというのは、ほとんどの人が是認するところだろうと思う。

その場合上記のような一般論を確認してみたところで、いったいなんの変化があるのだろうか。

なにも変化しないのではないのだろうか。

本来持っている「やさしさ」のせいで、自分に欠けている「強さ」を「サブ要素」のように考えてしまうからである。

そんな考え方をしていたら、結局また「やさしさ」に負けて、なにも変わらないのではないか。

話は冒頭に戻るが、だからこそあの担任の先生は「やさしさを捨てて」と書いたのではないだろうか。

 

「あなたは、やさしい。それはとても良いことである。しかし残念ながら強さが足らない。だからあなたは、強さを育てることにも留意しなさい」

というようなことを書くのが、一般的だろうと思う。バランスが良い。

そして贈る言葉は「やさしさだけでなく、強さも手に入れよ」みたいになるだろう。

しかし先生は、そうは書かなかった。

やさしさを捨てよ

と書いたのである。

 

良い先生だった、と思う。

担任の先生が教え子に対して「一般論」の御高説を垂れたところで、まったく意味はないからである。

そんなことなら、誰でも言える。

長年観察してきた相手だからこそ、その弱点が孕む危険性を回避するために「実現可能な」方法を説いてくれたのではないか。

まあ実際にはそこまでややこしく考えず、おそらくは客観的にぼくを見て、直感的にそう書いたのだと思う。

 

こいつは、やさしすぎる。

将来、このやさしさが、きっとこいつに仇をなすであろう。

「やさしさを保持しつつ、強くなれ」などと小難しいことを小学生に言っても無駄である。

こいつは、まず第一に「強さ」を獲得せねばならない。

二兎を追う者は一兎をも得ず。

やさしさなど捨てて、とにかく「強さ」を獲得すべきである。

 

そんなふうに考えたのではないだろうか。

 

客観とは、おそろしいものである。

その後長じてからも、ぼくはさまざまなところで同じようなことを言われた。

柔道をしているときも、

「おまえは、やさしすぎる。相手を殺すつもりでいけ」

営業の仕事をしているときも先輩に、

「おまえは、やさしすぎるよ。おれはそういうの好きだけどな。でもそれじゃあ、売上は上がらないぜ」

腰を痛めたときも、

「あなたは体質的に背骨が柔らかすぎます。一生筋トレをしないといけません。筋肉を強くしないと、この腰痛は治りません」

結婚した相手の父親にも、

「君は好青年だが、強さと厳しさが足りない。出世したいのなら、もっと強くならねば」

 

正直いって、辟易したものである。

親身になってくれる人全員が、「強くなれ」といい、「やさしさ」を否定するのである。

強く、強く、強く、強く。

なんだばかやろう!

うるせえ。

おまえたちなんかにいったい、おれの何がわかるというのだ!

 

いや、わかるのである。

じつは、じぶんのことが、いちばんわかっていない。

ひとのことのほうが、よくわかることも多い。

 

だからぼくはもっとすなおに、聞く耳を持つべきだったと思う。

そのとおりなのである。

ぼくのなかに「やさしさは美点」というこだわりがあったために、それを追求されると拒否反応を示していたところがある。

担任の先生が言っていたのは、まさにこの部分だったのだと思う。

やさしさが、良いとか悪いとか、そういう話ではない。

一般論の話をしているのではないのである。

「他でもない、ぼくが」優しさを捨てる必要があると、ただそれだけのことであった。

 

40年近くかけて、やっと理解したのである。

そのとおりである。

元来やさしい人間は、ことさらそれを保持し続けようなどと考えなくても良い。

むしろそうすることで、強さの成長を阻害することのほうが多い。

やさしさは、捨ててしまえ。

やさしい人がまず断捨離すべきことは、そのやさしさなのである。

そうしなければ、一生強くなれない。

やさしさと強さは、一般論としては共存可能であるし、相互補完的でもあり、根本的に同一である。

しかし「やさしい人」においては、これは「相克」の関係になりやすいのだった。

やさしさを、捨てなさい。

これは「ぼくにとって」、とても大切なことのひとつだろうと思う。

 

やさしい人に対して、

「あなたのやさしいところが、好きよ」

なんて言っては、いけないのである。

それは、やさしさではなく甘やかしだからである。

やさしい人にはむしろ、

「あなたの、そのやさしいところが、キンモー☆ きっしょー※」

と言ってあげることこそが、ほんとうの優しさなのだろうと思う。

ぼくも、そうしようと思う。

なぜならぼくは、やさしいからである。

 

☆…標準語で「きもちわるい」の変化型

※…関西弁で「気色悪い」の意

 

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