欲しければ与えよ

なんじゃい。

なんでこんな簡単なことに、気が付かんかったんか。

 

強さが欲しければ、だれかに強さを与え、

勇気が欲しければ、だれかに勇気を与え、

元気が欲しければ、だれかに元気を与え、

癒やしが欲しければ、だれかに癒やしを与え、

やさしさが欲しければ、だれかにやさしさを与えれば良い。

 

なのに、「欲しがる」ばかりで、「与えてない」のだった。

 

親しい知人から、相談を受けた。

仕事の関係で八方塞がりとなり、ニッチもサッチもいかなくなって、どうしたらいいだろうか、という相談だった。

話を聞くに、たしかにどうしようもない感じだった。

そこで、ぼくは言ったのである。

「どうしようもないのなら、何をしても良いということなんじゃないか。

どうせだめだろうと思っていることの中で、すこしだけでも可能性が高いことを、全力でやってみてはどうか。

このまま放っておいても、なにもしなくても、結局ダメになるんだ。

じゃあ一発、最後っ屁に、ガンガンいこうぜ!」

まあ、無責任な発言ではある。

しかし本当にどうしようもないときに、大変ね、大変ねと同情していたってまったく意味がない。

アドバイスするとしたら「進め」しかないのである。

意外なことで、この無責任なアドバイスが彼には「効いた」ようである。

スッキリしたのだそうだ。

そして結果的に、もちろん壮大な紆余曲折はあったが、なんとか最終的に困難は打破できたということである。

 

もちろんその結果にはぼくも喜んだが、不思議であった。

その結果を聞くまえに、つまり彼に強気のアドバイスをした瞬間に、ぼく自身が勇気に満たされたのである。

相手を鼓舞すれば、自分自身も鼓舞されるのだ。

そういえば、このようなことはこれまでにも何度か経験があった。

投げた球は、そのまま自分に返ってくるようである。

 

ぼくがほんとうに欲していたのは、勇気や強さだった。

なのにぼくはこのブログで「癒やし」ばかりを書いてきた。

やさしさばかりを周囲に投げていたのである。

だからじっさいに、ぼくには癒やしとか、やさしさなどの、陰性に属することが返ってきた。

そのかわり、勇気やエネルギー、強さなどの陽性のことは一切得られなかった。

 

癒やしというのは、はっきり言ってしまうが、必ずしも良いものではない。

癒やしとは、属性的には「陰性」なのである。

過ぎたるは及ばざるがごとし、しょっちゅう癒やしに触れているとバランスを崩し、人間性が低下していく。

甘えてしまうからである。

自分自身を変革しようとか、とりまく世界を改革しようとか、困難を打破しようとか、そういう溌剌とした向上性を失っていく。

現状に満足しようとし、問題を先送りにし、視点変更で危機感を無効化しようとするようになる。

むろん、ときには癒やしは必要である。

しかし癒やしばかりになってしまうと、人間がどんどん壊れていってしまうのだった。

 

へんなスピ系に染まったひとたちは「パワースポット」などという白痴まがいのことをよく言う。

ある特定の場所へ行けば、そこでエネルギーが得られるというのである。

しかし皮肉なことで、パワースポットめぐりをしているような人で破裂せんばかりのエネルギーに満ちあふれているひとは皆無である。

むしろ強い陰性の気を帯び、臆病で神経質で、被害妄想の状態に陥っている人たちが圧倒的に多い。

陰性だからパワースポットに行きたがるのでもなく、パワースポットに効果がなかったのでもない。

その理由はまったく別の次元にある。

「乞食」なのである。

エネルギーを、クレクレ、クレクレと、おねだりばっかりしている。

これは原理から逸脱しているのであった。

周囲からエネルギーを乞食するがゆえに、それが返ってきて、じぶんからエネルギーが奪われているのであった。

 

ぼくのパニック障害や自律神経失調症がなかなか改善しなかったのも、ここに原因があるかもしれない。

ぼくは自慢ではないが、けっこうやさしいほうである。

癒やし系のキャラである。

困っているひとや悩んでいるひとに対しては、いつもこう言う。

「大変だねえ」

「無理しないでね」

「しっかり休んでね」

もしかすると、このような周囲への投げかけが、そのまま自分に返ってきていたのかもしれない。

やさしさと癒やしだけは、ぼくにどんどん入ってくる。

しかし肝心の「火のようなエネルギー」、勇気や強さ、闘争心というものが、ほとんどまったく入ってこないのである。

それはぼくが周囲に対してそのようなエネルギーを与えようとすらしていなかったからなのかもしれない。

癒やしと優しさばかりを与え、勇気やエネルギーを与えてこなかったからではないか。

幸いなことに、怒りや嫉妬、呪い、罵詈雑言などは決して与えてこなかった。

だからこそ、ぼくにはそのようなおそろしい種類のエネルギーは入ってこないのかもしれない。

 

しかしひとつ気になるのは、「だめだ」という言葉だ。

ぼくはいい加減なくせに妙に真面目で正義感の強いところがあって、またすこしヒネクレているところもあるせいか「それはダメだ」ということを無意識によく言っている。

それはアカンわ。

アカンアカン。

アカンて!

もしかしたら、これも「返ってきて」いたのかもしれない。

実際には具体的な何かがあるわけではないのだが、どうも頻繁に「不自由」を感じることが多かった。

個事業主で出勤もなく時間が自由で、金銭的にとくに困窮しているわけでもないのに、説明不能な束縛感を感じることがある。

それほど強い感覚ではないが、なんだか手かせ足かせをつけられているような、身動きが取れない、追い詰められたような、妙な不自由な感覚。

これもまた、ぼくから出た「ダメだ」が、すこし返ってきていたのかもしれない。

 

直接会わず電話で話すだけでも、なぜか元気になれる人というのは実在する。

思い返せば、そのひとたちはみんな人に対してエネルギーを「与えよう」としているのだった。

言葉に、それが現れている。

「大丈夫」

「やろう」

「いこう」

「よっしゃ」

「OK」

「いいじゃんいいじゃん」

「絶対いける」

「いっとけ」

「心配すな」

「任せろ」

「頑張れ」

「気にすんな」

そのような肯定的な言葉を頻繁に使うのである。

いっぽう、話しているだけで滅入ってくるひともいる。

そういうひとたちは、不思議なことでみんな一様に「やさしい」のである。

何かを相談すると、一緒に悩み始めてしまうことも多い。

「どうしよう」

「困ったね」

「まいった」

「うーん」

「できない」

「私には無理」

「無理しちゃだめ」

「心配だね」

「不安だね」

そのような言葉を多用しているのである。

はっきり言って、悩みについて相談を持ちかけたのに、一緒に悩んで一緒に泥沼にはまってもらっても大変に迷惑なのである。

いわばこちらの心情をオウム返ししているだけだから、クソの役にも立っておらん。なんの解決にもならん。

しかしこのように相手に「同情する」ことを処世術としているひとは案外多く、こういった人と会話をすると、どんどんエネルギーを奪われていってしまうのであった。

 

ちなみに「与えない」ひとが、エネルギーの強い言葉を受けると、かえってエネルギーを消耗する場合がある。

頑張れ、という応援の言葉さえもが攻撃のように感じ、不愉快になるのである。

弱っているからそうなるというのもあるが、いっぽうで、日頃からあまり周囲にエネルギーを与えていないがために、エネルギーをもらい慣れていないというのもあるかもしれない。

一方通行的な強いエネルギーを受けると、その準備ができていなくてハレーションを起こし、受け止めきれなくなっているというのもあるのではないかと思う。

 

単純な話であった。

 

強さが欲しければ、だれかに強さを与え、

勇気が欲しければ、だれかに勇気を与え、

元気が欲しければ、だれかに元気を与え、

癒やしが欲しければ、だれかに癒やしを与え、

やさしさが欲しければ、だれかにやさしさを与えれば良い。

 

循環しているのである。

お金と同じなのかもしれない。

きっと人間には「エネルギー経済」のようなことがあるのだと思う。

最もまずいのは、エネルギー乞食なのだろう。

エネルギーを「与えられるもの」「もらうもの」と勘違いしてしまった瞬間に、その人からはエネルギーがダダ漏れになっていくのだ。

息はたくさん吐くから、たくさん吸える。

おなじように、たくさん与えるひとにこそ、たくさんのエネルギーが入ってくるのだと思う。

 

同情なんか、クソくらえじゃ。

はげまして、勇気を与えて、元気を与えよう。

同情ばかりしていたら、人類は全員共倒れになってしまうかもしれない。

 

 

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