嫌われ者、万歳。

よく「人から嫌われる勇気が必要だ」とか「人から嫌われることを恐れるな」みたいなことを聞く。

なんだろう。

とても違和感を感じる。

どうしてこういうふうに、中途半端な言い方をするのだろうか。

もしかしたら、こういうことを言うひとじたいが「人から嫌われたくない」のではないか。

嫌われる覚悟がないのではないか。

だからこのような中途半端な物言いになるのではないか。

「ほんとうは人から好かれたい」っていう気持ちがあるから、「勇気が必要」とか「恐れるな」なんていう言い方になるのではないか。

 

「なぜ嫌われたくないのか」

ということを、根本的に考えてみる必要があるのだと思う。

どうして、嫌われたらまずいのか。

よくよく考えてみたら、嫌われることじたいには思ったほどデメリットがないことに気がつく。

嫌われていることを意に介さないのであれば、まったくもって問題はないのである。

じつは一番の問題は「嫌われているかもしれないという心配」と「嫌われていることが不満」である。

ということはつまり、おのれの問題であるといえる。

 

またいっぽうで、「なぜ嫌うのか」ということを考える必要がある。

おそらく、この部分がもっとも重要なのだと思う。

嫌われるほうに問題があるのではなくて、じつは嫌うほうにこそ問題があるとは考えられないか。

ぼくはおそらく、嫌われる者よりも、嫌う者のほうにこそ重大な問題があると思う。

てめえとはまったく関係がないのにグジャグジャ文句を垂れているやつらを見るがよい。

たとえば最近では、皇室の女性と結婚した小室氏についてネット上で批判をしているやつは、大概しょうもないやつである。

会ったこともないうえに、皇室にも一切関係がないというのに、くだらない正義感を持ちだして、行動は起こさずウジウジしみったれた文句を言っている。

不健康である。

「人を嫌いたがる人」。

まことに情けない話だが、そういうのがいるのである。

彼らは総じて嫉妬深く、臆病で、くだらないこだわりが強く、他者への愛がなく、小心者で、エゴが強く、硬直的で、性格がくらく、馬鹿である。

人の好き嫌いが激しい人も、そのような傾向が強い。

かたや「人を嫌わない人」というのもいる。

価値観が合わないとか、反りが合わないとか、話が合わないとかそういうのはあったとしても、べつに「嫌う」ということはない。

彼らは「嫌うひとたち」とは逆の様相を呈していて、嫉妬少なく、勇気があり、柔軟で、愛が豊富で、おおらかで、我欲が少なく、あかるくて賢いひとが多い。

人のことを好き嫌いでは判断しないのである。

 

こうして比べてみれば、どちらに問題があるかはもはや明確だと思うのである。

嫌うのは、「嫌う」という情動反応を起こしやすい者だけである。

また「嫌う」という情動反応を起こしやすい者には、非常にザコが多いのである。

このようなザコに嫌われても、どうということはないのではないか。

大人物は「嫌う」ということは原則やらないのだから、なにをしたってすくなくとも嫌われることはない。

いっぽう、小物はなにをしたってその人の悪点を見つけ、嫌いになる努力を怠らない。

つまり、なにをしても、なにをしなくても、

「大人物には嫌われることはなく、小人物には嫌われる」

という事実は一切変わらない。

 

だから、嫌われる「勇気」なんかいらないのである。

嫌われる「覚悟」も、いらないのである。

気にしなくて良いということである。

上記のロジックからすれば、むしろ「嫌われたほうが良い」とすらいえる。

いかなる理由があるにせよ「嫌う」という情動反応を示したものは、そもそもあまり大したやつではない。

嫌われたということは、その相手は必ずザコなのである。

 

あえて嫌われる生活を送ってみれば、さらに良いのかもしれない。

「小人物発見器」となることが可能だからである。

嫌われるための努力をいっしょうけんめいにしていても、それでも嫌ってこないひとは、ほんものの大人物である可能性が高い。

そういう人とは親しくしておいたほうが良い。

嫌われる生活を送れば、大人物のフリやおおらかなフリ、リベラルなフリをして、隠れ身の術で気配を薄めている小人物どもをいぶりだすことができる。

人間関係の再構築のためには、とても効率がよい方法かもしれない。

 

「嫌われない人」になるよりも「嫌わない人」になることこそが、大事なのだろうと思う。

類は友を呼ぶという。

ひとのことを好きだ嫌いだと言っているひとの周りには、自然と小物がよりつどう。

ひとのことをことさら嫌わない人には、自然と大人物が集まってくる。

どっちのほうが幸せかは、むろん人の価値観による。

人の好き嫌いを激しくさせて、好きなひととだけ仲良くし、しかしその好きな人は高確率で小物だから嫌われる可能性は高く、そのことで一喜一憂しながら生きていくのもまた人生である。

人の勝手である。

だから文句はいわないが、おれはやらない。

めんどうくさいからである。

どうせめんどうなことをやるのなら、筋トレでもしておいたほうが良い。

もしくは「好き嫌いの激しいひとも、嫌わないようにする」という努力をするほうが良い。

あるいはいっそ、嫌われる工夫をするほうが良い。

嫌われ者は世に憚るが、八方美人はすべからく不幸である。

岡本太郎さんも言っていたそうである。

「嫌われたっていいじゃないか。 —— いや、嫌われないといけないんだ。」

 

 

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