ここ1ヶ月ぐらい食欲もなく、すこしボケているような感じはあった。
耳も聞こえないようで、声をかけてもほとんど反応しない。
散歩にもあまり行けなくて、一日じゅう寝てばかりいる。
最近はそんな感じなのでほとんど家に入れていたが、今日は天気も良く暖かいので、ひなたぼっこも兼ねてしばらく庭に出していた。
たろうは芝生の上に寝転んで、気持ちよさそうに眠っていた。
異変に気がついたのは、まずぼくだった。
夕方の4時ごろ、庭に出てたろうのほうを見ると、いつものようにいつもの姿勢で眠っているようだった。
しかし、その姿勢は午後1時ぐらいから全く変わっていないように見えた。
いくらなんでもじっとしすぎじゃないかと思って頭をさすってみると、すこし動いた。
でも、それ以外の反応はなかった。
すぐに抱きかかえて家の中に入れ、毛布の上に寝かせ、撫でたり声をかけたりしたが、ほとんど反応しなかった。
呼吸はしているし、からだも暖かいが、動かない。
17歳の老犬なので、元気に、というわけではないが、きょうの昼ごろまではヨタヨタしつつも少しはうろついていた。
どうしても「急に」という感が否めない。
たろうは急に、動かなくなった。
表情や姿を見ても、痛そうだとか苦しそうだとかはない。
むしろ顔だけを見れば、すこし笑っているようにさえ見える。
それはたろうが機嫌の良いときの顔である。
気持ちよさそうに眠っているように見える。
でも、動かない。なにをしても、反応しない。
例えるなら「電池が切れたように」という感じである。
暴走するわけでもなく、おかしな動きをするのではなく、ただ静かに、音もなく、止まっていくような感じがする。
17年をともに過ごした愛犬だが、いずれ死ぬことは承知していた。
犬は平均で10年少々しか生きないというから、17歳といえばかなり長生きなほうではある。
ぼくは犬好きだが正直いって溺愛しているというほどではなく、ただ飼っている、ただ横にいるという感じのほうが強い。
散歩させたり餌をやったり風呂に入れたり、たまに叱ったり、たまに遊んだりと、普通に接しているだけだ。
たまに愛犬家の中には一緒にベッドで眠ったり、一緒に風呂に入ったり、同じ食卓で飯を食ったり、しまいにはキスする人もいるらしいが、ぼくは絶対にやらない。
イヌとヒトの境界線は、厳然と引いている。
だからもしたろうが死んでも、ぼくはそれほど悲しまないのではないかと思っていた。
動かなくなったたろうのそばで、母は何度も声をかける。
「たーろう。たーろう。起きて、たーろう。」
なんどもなんども、呼びかける。
たろうはそれでも、動かない。
ぼくにとって、その母の声こそが辛かった。
一心に呼びかける母の声を聞くと、涙が出てきた。
もっとたくさん遊んでやれば良かった、と悔やむ。
もっといっぱい撫でてやればよかった、と悔やむ。
もっとウマイものを食わせてやればよかった、と悔やむ。
もっといろんなところに連れていってやればよかった、と悔やむ。
果たしてこいつは、俺に飼われて幸せだったのだろうか。
ほんとうは、もっと優しい飼い主に飼ってもらったほうが幸せだったのではないか。
動かなくなった老犬を前に、飼い主は悔やみ、懐疑するばかりである。
そのような後悔と懐疑を、たろうの笑ったような顔がすこしだけ、慰めてくれる。
犬というのは、死に際してもまだ飼い主を癒やすのであろうか。
動かなくなったたろうを前にして、とくに思う。
彼は死に際しても世の中を恨むことなく、悩むことなく、おだやかに微笑んで堂々としているではないか。
たろうは、うつくしい。
引きかえ、俺たちはいったい何をしているのだろうか。
死にもしないのに死ぬ死ぬと大騒ぎをしてみたり、まだ起こっていもない不幸を妄想してひどく焦ったりしている。
イデオロギーや思想などという、煮ても焼いても食えないようなしろもののために、人を苦しめたり、卑下したり、殺したりする。
便利になるために作った、これも煮ても焼いても食えぬ「お金」という「概念」のために、勝手に苦しんだり、死んだりする。
殺されかけたわけでもないのに人を恨み、嫌い、怒りを抱え、勝手に健康を害していく。
子孫を増やすためでもないのにセックスをして、惚れた腫れたなどと勝手に騒ぎ、苦しんで、しまいにはひとの配偶者に手を出してみたりして、いらぬ騒動を起こしたりする。
すでに相当な自由があるのに、不自由であると喚き、自力で稼げないくせに社畜だのブラックだのといって文句を垂れる。
これがもし知能のなせるわざであるというのなら、もしかすると、知能はこの世で最も卑しいものなのではないか?
その最も卑しいものを手に入れるために、我々は日々努力しているのか?
いくら知能のおかげで生存確率が高まったとしても、死を目前にして醜く焦り倒していたのでは、苦しみが増えるだけである。
「考える」ことが、そんなに素晴らしいことなのか?
果たして、俺たちは、正気なのだろうか?
もしかすると、俺たちは全員、気が狂っているのではないか?
もしかすると、俺たちこそが、この地球上で最も愚かで下等な存在なのではないか?
生命という電池が切れかけて、いまおだやかに微笑みながら横になっている、
この小さないきものこそが「正気」に見える。
たろうは明日、目を覚ますだろうか。
すこしは元気になってくれるだろうか。
ぼくは、心配し、期待し、考える。
しかし当のたろうは、とくになにも考えず、とくになにも、期待しない。
果たして、どちらが高等といえるのか。