さようなら、たろう

けさ、愛犬のたろうが亡くなった。

享年16歳、朝の4:45だった。

昨日の夕方あたりからほとんど動かなくなって動物病院で点滴も受けさせたが、元気が戻ることはなかった。

あの機嫌が良いときの笑顔のまま、苦しむことも痛がることもなく、ほんとうに眠るように亡くなった。

 

たろうはぼくがパニック障害になって離婚し、当時勤めていた会社を退職したころ今住んでいる家で飼い始めた。

だだっ広い1軒家に独りで住む寂しさもあったし、「庭付きの一軒家で犬を飼う」というのがぼくの夢のひとつでもあった。

16年前当時、パニック障害というのはまだあまり知られていない病気だった。

発作を起こして行動不能になっても見た目や行動はとくに変わらないから、理解されにくい。

仕事相手はもちろんのこと、友人や家族、両親でさえ理解してもらえない。

まるでぼくが仮病を演じているかのように疑い、罵るひとさえいたものだ。

 

そんな人達に囲まれて生きていたぼくにとって、たろうは唯一の理解者といってもよい存在だった。

子どもの頃のたろうはそれはもうやんちゃで、いくら叱っても電源コードを齧って感電して叫んでみたり、走行中の車の中からとつぜん外に飛び出してあやうく死にかけてみたりなど、予想外の行動をよくしていた。

家の中でも始終暴れまわっていて、よく怪我をしなかったものだと思う。

そんな傍若無人なたろうにも、やさしい一面があった。

ぼくがパニック発作で苦しみ始めると、かならず暴れるのをやめて、ぼくの足元に近づいてくる。

そして背中をぼくの脚にぴたっとくっつけて、心配そうに見上げるのだった。

これは毎回そうなので、おそらく偶然ではない。

きっと飼い主の微妙な変化を察知しての行動であったのだろうと思う。

しかし人間は、家族や両親でさえ、パニック発作を起こしている人の変化にはまったく気がつかない。

それどころか、しまいには責めるしまつである。

たろうだけが唯一、ぼくの「異常事態」に、即座に気がついてくれていた。

 

もちろん、犬に心配されたところで発作が止まるものでもない。

しかし気分的には多少癒やされるものである。

人間ではない生き物であっても、病の改善には役に立たないとしても、「いまなにかが起きている」ということを同時に共有できる相手がいるということは、心理的に少なからず安心感をもたらしてくれる。

人間側の勝手なロマンスなのかもしれないが、それでもうれしかった。

親しい人にでさえ仮病を疑われ、妻には見切られ、両親にさえも「なんとか治せ」という無理難題を与えられる人生においては、「心配してくれているように見える」存在は、とてもありがたかった。

それがもし飼い主であるぼくの勘違いであったとしても、「事実」は変わらないのである。

人間なのに困っている人間を責める行動をとる人と、犬であっても困っている人間に寄り添おうとする存在とでは、事実ベースで根本原理が異なってくる。

口先では愛だの思いやりだのという美麗な語句を並べていても、悩み苦しむ人について一切の理解を示さず、何一つ行動を起こさないのであれば、もはや何ら価値がないのである。

それに引き換えたろうは、発作時のあの強烈な不安のときにすくなくとも「自ら近づき、よりそって、見つめる」という行動は「した」のである。

原理を理解していることと、その行動とには、因果関係はない。

愛があることと、その行動とにも、因果関係はない。

行動こそが愛であり、理解である。

 

たろうが若いころのぼくはパニック発作の頻度が多く、外出ができない時もあったので、散歩にはあまり連れていけなかった。

皮肉なもので、たろうが年老いてあまり動けなくなってから、ぼくのパニック発作は減っていった。

それでもたろうは、なにひとつ文句を言わなかった。

10年ほど前にこの家で両親と同居するようになってからは、父母がたろうの散歩をすることが多くなった。

当時両親はしょっちゅう体調を崩しており、入退院を繰り返していたが、たろうと散歩をするようになってから病魔は消え去った。

以前は便の良い都心のマンションに住み、車を乗り回していたので、運動不足のために弱っていたのだろうと思う。

しかしこの山裾で起伏の多い土地の家に来て、かつ犬と毎朝毎夕散歩をするようになってから、健康を取り戻したようである。

歩くということは、やはり人間の基本原理なのであろう。

そういう意味でたろうは、ぼくの両親も救ったといえる。

たろうがいなければ、どうせ車を乗り回して散歩など行かなかったはずだから、早々にあのまま死んでいたかもしれない。

たろうは犬だが、ぼくのこころを癒し、ふたりの老人の健康を回復させたともいえる。

合計3人の人間を救ったといっても、過言ではないのかもしれない。

 

これはまったく飼い主の妄想であるが、だから、だと思いたい。

そのように人を救った犬だからこそ、あのように微笑んで、まったく不安というものを感じさせないままに、とても心地よさそうに亡くなっていったのではないか、と。

犬にとっては、飼い主とその家族こそが「世界のすべて」である。

その「世界の終わり」のとき、家族全員に囲まれ、優しく撫でられながら、この世を去っていった。

人間でも、このような幸福な死に様というのはなかなかないのではないか。

うらやましいとさえ思う。

 

しばらくは「たろうロス」が続くかもしれない。

正直にいって、あまり仕事が手につきそうにない。

しかし、思い替えることにした。

 

「これも、トレーニングである」。

 

いずれ愛するものとは死によって離別するものであり、このことは避けることができない。

 

「愛するがゆえに苦しい、だから愛は持たない」

 

などというような臆病で意気地なしの考え方などには絶対に近寄らず、旺盛な愛をもって、旺盛に苦しもうと思う。

苦しむのは、愛あるがゆえである。

この種類の苦しみからは、絶対に逃げてはならないと思う。

真正面で、このド直球を、腹のど真ん中で受け止めよ。

そのことによってこそ、こころは本当に強くなる。

 

たろうは、死してもなお、ぼくを強くしてくれるのである。

たろうの死によってさらに強くなること、それこそがたろうへの「恩返し」だと思っている。

 

さようなら、たろう。

ありがとう、たろう。

もし来世があるのなら、きっとまた会おう。

 

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