ふしぎなことも、あるものだ。
まあただの偶然、「たまたま」なのだとは思うが。
16年ともにした愛犬「たろう」は、けさの4:45に亡くなった。
いろいろな手続を終え、庭に出て、いまは空っぽになった犬小屋を呆然と眺めていたところ、なんだか聞き慣れた動物の声が聞こえた。
きゅー、きゅー、キュンキュンと小さく呻くような声。
子犬の声である。
そのときにぼくの家の目の前を車がバックしてきて、すこし通り過ぎて止まった。
そこへ生まれたばかりの子犬を抱えた女性が、隣の家から飛び出してきて、車に乗って去っていった。
どうやら、お隣の家に子犬が生まれたようだった。
その家の方は最近越してきたばかりなのであまり知らなくて、そもそも犬を飼っていることさえ初めて知った。
たろうが死んだその日、お隣の家で、子犬が生まれた。
ただの偶然、「たまたま」なのだと思う。
思うが、どうしてもすこしだけ、思ってしまう。
「生まれ変わったのかな」
もしそうだったら、会ってみたい。
とても、会ってみたい。
そんなことを考えてしまう自分に、ぼくは驚くとともに、すこしだけほっとした。
長年パニック障害をやっていたりして、もしかするとぼくは少し人と違う神経をしているんじゃないかと疑ったこともある。
大丈夫のようであった。
愛犬を失った日、たまたま隣で子犬が生まれたら、それが愛犬の生まれ変わりではないかと思った。
いや、正確には、ちがうな。
「生まれ変わりだったらいいのに」
と「願った」のだ。
ぼくには少々冷たいところがあるから、あいつが死んでも泣かないんじゃないかなと思っていた。
ふつうに仕事とかしてるんだろうなと思っていた。
そうはいかなかった。
ふとしたときにあいつの顔が浮かんで、自動的に涙が出てきてしまう。
家族全員でたろうと遊んでいる写真をつい、眺めてしまう。
仕事がほとんど、手につかない。
なぜか、からだに力が入らない。
悲しい。
悲しいが、すこしだけ、安心する。
そうか、おれは「ふつう」だったんだな。
愛犬を失い、茫然自失となって、仕事が手につかず、急に涙が出たりする。
この一連の行動は、まごうことなき「ふつうのおじさん」である。
まったくもって「ふつうのおじさん」である。
よかった。
ぼくにはちゃんと「心」があったんだな。
あたまも、こころも、おかしくはなかった。
愛犬を失えば悲しむという、とてもとても普通の神経を、ぼくは持っていたのだった。
うまれてはじめて「輪廻があってほしい」と思った。
姿や形は変わっても、会えるのなら。
そんなぼくは、あの生まれたばかりの子犬を間近に見たならば、きっとそこにたろうの面影を探し回るだろう。
そして、生まれ変わりだと確信したがるだろう。
妄想かもしれないが、それでかまわないと思う。
そのように思いたがるのもまた、正常な人間のあかしである。
じっさいに輪廻があるかどうかは、ぼくは知らない。
知らないが「あってほしい」と思う、ぼくがいる、ということだけは、しっかりとした事実である。