ウツになりやすい人の多くに、自己喪失感というのがあるらしい。
ウツになったから自己喪失感が強くなったというよりは、自己喪失感を感じたことによってウツになる、というメカニズムらしい。
そして自己喪失感というのは、自己の存在意義を失ったと感じることによって生まれることが多いらしい。
ペットロスなどもこの一種で、ペットという心の支えを失ったことで、自分自身のアイデンティティーも同時に喪失する。
失ったのはペットだが、ほんとうに失ったのはアイデンティティーだったのである。
「アイデンティティーの喪失に弱い」人たちがいる。
じぶんの周囲を眺め回してみて、あることに気がついた。
いわゆる「右翼」に傾注している人たちに、アイデンティティーの喪失に弱い人が多いのだった。
ネトウヨというのは、なんとなく若い人に多いイメージがあるが、統計によればじつは40代以降の男性に最も多い。
右傾化するのも、もちろん例外もあるがやはり40代以降の男性に多いそうである。
ぼくの周囲にいる、いわゆる「プチ右翼」「プチ排外主義」の人たちには、面白い共通項がある。
・おしゃべりで、人との会話が好き
・電話が長い
・酒好き、複数人で飲みに行くのが好き
・愛想がよく、面倒見がよく、社交的である
・卒業校や学生時代の部活動などに愛着を持っている(愛校心)。
・40歳以降である
・会社の経営者である
・泣き虫である
上記の特徴に見える共通事項は、端的に「寂しさ」ということなのかもしれない。
寂しさに弱いため、孤独に弱く、何らかの集団に属するか頻繁に誰かと接していないと心が立ち行かない。
もしかすると、寂しさに弱いひとが右傾化するのではないか。
ぼくはいわゆる「右翼」というのを正確には定義できないし、その歴史も知らないが、なんとなく感じる特徴がある。
基本的に「日本は本質的に良い国であり、日本人も本質的に優秀である」という概念を中心に持っているのである。
そして、その「良さ」は、現在は何らかの理由で失われたと感じていて、その理由のひとつに「海外の侵攻」ということを定義している。
もともと日本は素晴らしい国なのだが、海外の人や文化、政治的圧力などによってそれが失われてしまった。
よってこれを断固として取り戻さねばならぬし、海外文化は排除すべきである、というような方向性に傾くことが多い。
結果、近隣の文化が似たような国家すなわち中国や韓国等を異様に嫌い、陰謀論を信じるようになっていく。
「どういう人が右傾化するか」ということを考えたとき、右方向の思考は、何かと論理的なことを言ってはいるけれども、要するに「それはおまえの話だろ」ということを感じる。
寂しがりやの人というのは、アイデンティティーを喪失しやすい。
そこで自己のアイデンティティーを守るためには、自分が所属する団体の「堅牢性」がどうしても必要になる。
「わたしアゲ」をするためには、「国家アゲ」は有効な手段のひとつである。
じぶんが所属するコミュニティーの価値が高ければ、自分自身の価値も高いというわけである。
アイデンティティ・クライシスを引き起こしやすいひとにとって、おのが国家の価値の下落は、およそ耐え難いものである可能性が高い。
右傾化する人が経営者に多いというのも納得がいく。
経営者というのは、「孤独」だからである。
元来寂しがりやのひとが経営者になると、さらにアイデンティティーを喪失しやすいかもしれない。
また40歳以降に多いというのも納得である。
男性は40代を過ぎると男性ホルモンが急減し「男としてのアイデンティティー」を喪失しがちである。
体力も、精神力も、行動力も、性的能力も減退し、本能レベルでの不安をよく感じるようになる。
いろいろと高度なことを言ってはいるが、客観的に見れば、じつは「寂しいだけ」であり、口角泡を飛ばして天下国家を論じるその目の奥には「不安」という闇がうごめいているだけなのかもしれない。
自信がないから、「国家」に引きこもりたいのではないか。
いっぽう、右傾化しやすい人とは逆の指向性を持っているひとたちもいる。
「孤独に強い」タイプの人である。
では、そういうひとたちが逆に左傾化しやすいかというと、これがじつに不思議なことで、そうではないことが多いのである。
孤独に強いひとは「アイデンティティ・クライシスにも強い」のかもしれない。
国家やコミュニティーの価値上昇、あるいは自己を定義する諸条件の有無には関心が希薄な向きがある。
とくにこと「アイデンティティー」に関しては、何らかの派閥に属さなくともあまり揺るがないか、そもそもアイデンティティーというものにさえ依存していないように見える。
言ってみれば「一匹狼」的な感じで、つるむことを嫌い、独自路線を貫こうとする。
かなり我が強く、プライドも高い。
そんなひとは右傾化もしないかわりに、左傾化もしないことが多いようだ。
宗教団体をはじめ、どのような団体にも所属しようとしない傾向がある。
右左という思想体系そのものからも離れているがゆえの、一匹狼なのかもしれない。
じつはぼく自身が、かなり高い一匹狼的特性を持っている。
だから、見えたのである。
世間一般によく言われる「ネトウヨ」の人たちが言っていることについて、信じる信じないの前に、どうしてそんなことに必死になるのかがよくわからなかった。
ぼくはべつに高等な道徳的指向性を持っているわけではない。
差別が嫌いとか良くないとかそんな高度な議論の前に、単純に「何を言うとるか、わからん」のである。
いや、正確には何を言っているのかはわかるが、「どうしてそんなことに興味を持ち、時間を割くのか」がわからなかった。
韓国人をディスって、いったいいくら儲かるのか。だれに、いくら請求できるのか。
なんにも儲からんのである。めんどうくさいだけである。
そもそも相手が誰であろうともその悪口を言うことじたいが、ぼくにはストレスで、それよりも褒めまくるほうが気分が明るくなる。
一円も儲からなくて、めんどうくさくて、気分が暗くなるようなことを、なんで一生懸命にやらんといかんのか。
そんな疑問を常々感じていたのだが、周囲の「右系」のひとたちの特徴を整理してみたときにはっと気がついた。
そうか。
みんな「寂しがりや」だったんだ。
じぶんじしんのアイデンティティーを、維持あるいは再構築したかったんだ。
だから、ある意味「うらやましい」とも思う。
そのように「日本アゲ」あるいは「リベラルサゲ」「中韓サゲ」をすることで溜飲が下がり、失いかけたアイデンティティーが復活できるのであれば、安いものだともいえる。
確かに、「日本民族は優秀である」というような一種の民族主義的な指向性を持てば、毎日が自信に満ち溢れたものになるかもしれない。
自分が所属するコミュニティーの価値を上げれば、じぶんの価値も「主観的には」上がるからである。
そのような種類の「精神的仮想空間における自己の相対的・主観的価値上昇」では純粋にアゲアゲになればいぼくは、結局筋トレするしかないのである。
「現実空間において、自己の絶対的・客観的価値上昇」をしなければ、スカっとせんのである。
自分自身の価値を客観的・現実的に上げないと、アイデンティティーがグラつく。
たぶん、謙遜ではなくて本当にバカなんだと思う。動物的だ。
損である。
「大和民族は神の民族であり、日本国は世界の雛形であり、神に選ばれた至高の国家である」
というふうに思うことで毎日がイキイキと生きていけるのであれば、それはそれでマジで良いと思う。
まあそういうふうに考えると、相対的に「日本人以外は下等」みたいになって、嫌いな人や敵が増えて息苦しくなったりするし、
海外文化の流入と影響は今後もう絶対に止められないから、世界視野では生きづらくなるのかもしれないが。
でもそのことで、行動として誰かを攻撃したりしない限りにおいては、べつにかまわんと思う。
いいなあ。「国粋主義」で酔えるのは、果報者なのかもしれない。
ぼくの家には神棚があるので、よく「右系のひと」に勘違いをされる。
右系のひとの家には、よく神棚があるのだそうだ。
それがもし本当なら、彼らは神棚にどんな神様を祀っているのだろう。
「日本アゲアゲ」の神様なのだろうか。
ぼくは個人的に、神様というのはまさに「超人的」なのだから、日本だの中国だの韓国だの、そんな人間臭いチマチマしたことでキャンキャン喚いたりはしないんじゃないかな、と思ったりもする。
「あらゆる存在を超越した存在」こそが神様だと思うので、神棚を祀っているひとが右翼なら、それはちょっと論理的に矛盾するんじゃないか。
神棚を祀るのなら、神様の意向に沿うべきではないのか。
ぼくの神さまは日本だけでなく、この世界、この地球、人間だけじゃなく全部のいきもの、この宇宙の全時空と全次元を、人間を超越した原理で支配し、守っている。
だから右とか左とか、神様にあるもんか、と思う。
まあ、この独特の考え方じたいがまったく「一匹狼」なんだろうと思うが。
でも、よしあしはべつにして、これでいいのだ。
おっぱい好きがお尻ではコーフンできないのと同様、右でも左でもコーフンできなかったら、しょうがない。
これは性癖みたいなもんである。