うちには神棚があって、年末が近づくと祀ってある「おふだ」を神社に交換しに行く。
今年も、もうそろそろだなあと思って散歩がてら神社に行った。
12月に入ればだいたいどこの神社でも神棚用のおふだ(正式には、神宮大麻というらしい)を社務所で売り出すようになる。
近所の神社も例に漏れず販売していた。
ちなみにおふだやお守りは、正式には「購入する」ではなく、「授かる」とか「受ける」とか言うのだそうだ。
だから「売っている」「販売する」というのも、たぶん正式には間違っているのだろうと思う。
「おふだ」ではなく「神宮大麻」である、とか、「買う」ではなく「授かる」である、とか、そういう微妙な言葉遣いのルールには毎年混乱する。
思い出せないのである。
社務所で巫女さんに声をかけたは良いが、いつもそこで言葉を失い、フリーズしてしまう。
「あのう、アレです。アレ、ホラ、ええと、ホラ、神棚のアレをですね……」
神宮大麻、なんていう言葉は1年のうちに1回ぐらいしか使わないから、スっと出てこない。
神宮大麻のことを「アレ」呼ばわりしたことも無礼なのではないか、という心配が起こったりもして、よけいに言葉につまる。
そしておじさん(ぼく)は、我が子と同い年ぐらいの可愛らしい巫女さんをじっと凝視したまま、黙然と立ちつくしてしまう。
「神宮大麻ですね? はい、ございます」
みたいに、巫女さんが気を利かせてくれたらとてもありがたいのだが、巫女さんは売店の受付嬢でもなければ、お弁当屋さんの売り子でもない。神職なのである。
だから戸惑うおじさんの心理を読むことは、巫女さんの専門外である。
神職である巫女さんに対して「ピンとこいっ!」などと要求する気持ちは当然起こらず、むしろ「申し訳ない」という気持ちにさえなる。
するとそのうち、なんともいえぬ沈黙が怖くなるのと、広告業に携わっているくせにこんな簡単なことさえ相手に伝達できない自分が情けなくなって、泣き出したいような気分になってくる。
結果、社務所ではひとりの泣きそうな顔をしたおじさんと、ひとりの笑顔の巫女さんが黙したまま対峙するという、ちょっとした異世界的な状況になってしまう。
このまま巫女さんを無言で凝視していればそのうち危険人物と認定され、通報されたりするのではないか。
そんな心配も出てきて、「このままでは、いけない!」とさらに焦燥感がつのる。
そこでとうとう、
「神棚のおふだを、買いたいのですが」
と呻吟するように意図を伝える。
ああ、言ってしまった。とうとう、言ってしまった。
「おふだ」とか「買う」とか、言ってはならない言葉を言ってしまった。
しかし幸いなことに、巫女さんはこの発言を糾弾することはなく、「どのサイズですか?」と聞いてくれた。
よかった。こころやさしい巫女さんであった。
この、非常識ものが! お前に授ける神宮大麻などねえ! 出ていけ! などといって怒られずにすんだ。
しかしまた、問題発生である。
そうだった、「サイズ」があったのである。
今まで祀っていた神宮大麻は「お焚き上げ場」にすでに納めてしまっていたから、もはや手元にない。
だから「これと同じサイズを」という現物対比での交渉は不可能である。
「サイズ……」とオウム返ししたまま、おじさんはまた硬直する。
例えばであるが、いつも使っているスマホの長辺を咄嗟に聞かれて、即座に「何センチ」と答えられる人はいるだろうか。
普段使っている物体のサイズでも怪しいのに、年に1回しか触らないもののサイズを答えられるはずがない。
そういえば昔同じようなことがあり、てきとうにお願いしたところ大きすぎて神棚に収まらなかったという苦い経験もある。
だからよけいに、悩んでしまう。
「大は小を兼ねるというが、こういった場合には、逆かもしれない」
ということに思い至り、なんとなくイメージしているサイズよりもすこし小さめのものを買う(授かる)ことにした。
料金(でいいのかな)を支払い(でいいのかな)、ありがとうございます、と言おうとして、そこでまた気づいてしまう。
授かったおふだは「その神社のもの」で、神棚の中央に祀る「天照大神」と書かれたものはセットになっていない。
これは昨年も同じことがあった。
もしかすると「おふだ」と言ってしまうから、そうなるのかもしれない。
神宮大麻、と正確に発音できていれば、ちゃんとセットで売ってくれるのだろうか。
そこでまた巫女さんに向き直り、
「あのあの、ええと、このおふだ……じゃなくて、なんでしたっけ、コレ(失礼だなあ)、コレって、天照大神って書かれたおふだはないんですよね」
質問すると、
「神宮大麻のセットですね?」
といって、巫女さんは茶色い厚紙でできた二つ折りのサンプルを手で指し示してくれた。
な、なんということであろうか!
ぼくはまったく気が付かなかったが、ほんの目と鼻の先にちゃんとサンプルが掲示されていたのだった。サイズまで書かれている。
なにも巫女さんの前で額から脂汗を垂らして考え込むまでもなく、「これください」で良かったのである。
おそらく毎年同じような人がいるので、神社側もいろいろ考えてくれていたのだろう。
正しく購入し、ホッとしながら社務所を後にして思い出した。
そういえば、まだお参りをしていない。
「神宮大麻関連の一連の業務」は完遂できたが、お参りをしていないのである。
これはもしかすると、失礼にあたるのではないか。
なんとなくではあるが、まず本殿にお参りをしてから、そのあとに古い御札をお焚き上げ場に納めたり、新しい神宮大麻を授かるというのが正しい行為のような気がする。
いかんな。これは、いかんのではないか。
さきほど授かった神宮大麻をいったん返品し、お参りをしてから再度購入する……ということも考えたが、まず「返品」などということが可能なのかどうか、そしてそもそも、返品行為じたいがさらに失礼にあたるような気もして、戸惑う。
やはり、まるでモノのようにいったん差し戻すというのは問題があるだろうと勝手に結論し、後手後手ではあるがお参りをすることにした。
そのお参りのときに、こころの中で「順番を間違えてすみません、悪気はありません」と謝ろう、と思った。
社殿に向かい、数段ある階段を登り、巨大な神鏡と対峙すると、またアタフタしてしまう。
いつもそうだ。
「神社でのお参りの手順」が、どうもアヤフヤなのである。
二礼二拍手一礼、というのは一応知っている。
そこでまず、スっと頭を下げたが、その状態で思い出してしまった。
「賽銭が先」
そうだった!
たしか、まず賽銭を入れてから二礼二拍手一礼を執行すべきだったような気がする。
しかし今や、二礼二拍手一礼の合計「三礼」のうちの「一礼」が、すでに消化されてしまっている。
三分の一が、すでに実行されてしまったのである。
こういう場合は、どうなるのだろうか。
「いまのは、ノーカン(ノー・カウント)で」
というのは、アリなのだろうか。
上体を前方90度に傾けたまま、ぼくは今後の身の振り方を案じてしまう。
今後の人生の身の振り方を案じる人の数は多いだろうが、神社のお参りの最中に直後の身の振り方を案じるひとの数は、いかほどであろうか。
「一礼」をしたまま、ぼくはフリーズしてしまう。
ハタから見れば、非常に敬虔な参拝者と見えるだろう。
しかしそのじつは、ただ悩んでいるのである。
「賽銭をすっ飛ばして一礼をしてしまった」ことで、次にどうしたらいいのか思案しているのである。
そのうち腰が痛くなってきて、神社側から正式な許可は得ていないが、この一礼は「ノーカン」にすることにした。
ぼくはただ、腰の運動をしただけである。
ゴルフなどでは、打ち間違えても「今のナシ!」というのは決して許されないだろうが、「誰も見ていないので」良しとした。
しかし神様は見ている。
もしかしたら、手順の間違いについて、あとからペナルティを与えられるのだろうか。
そうならないよう、次こそは、完全無欠の手順を踏もうと決意する。
まず、賽銭である。
ポケットから小銭を取り出し、それを放り投げようとした瞬間、
「アカンアカン!」
と、声には出さないが、急停止した。
すでに前方に腕を振り出した状態で急停止したために前方につんのめり、ヨタヨタとなり、バタバタと賽銭箱に覆いかぶさるような体勢になってしまった。
思い出したのである。
まず「鈴」を鳴らさなければならなかったはずだ。
天井からぶら下がっているヒモを揺り動かして、カランカランとさせてから、賽銭を投げるのが正式な手順だったように思う。
ハタから見れば、急性のめまいを起こして転倒する人と思われたかもしれない。
セーフである。ノーカンである。
賽銭を投げてしまってから思い出したら、さすがにアウトである。
しかし幸いなことに、放擲中ではあるが急停止したために、賽銭はまだわが手の中にある。
「まだ、なにもしていない」
行為の目的性だけでいえば、そう言っても良いだろうと思う。
最初の「一礼」はノーカンとして除外したし、まだ賽銭は投げていないので、礼拝手順は何も実行されていないと考えて良いように思う。
賽銭の放擲を急停止したためにつんのめり、賽銭箱の上においかぶさってジタバタしたが、それはまあ、なんていうか、準備体操のようなものである。
礼拝に準備体操というのは、普通はないのかもしれないが。
気を取り直し、目の前にある極太の縄を握りしめ、左右に揺り動かす。
しかし、想像以上にこの縄が重い。
なぜそう思うのかはまったくの謎であるが、神社の鈴の縄はものすごく軽く動かせるような気になっている。
考えてみれば、あまりに軽いものだとゆるい風が吹いただけで鈴がガランガラン鳴ってウルサイし、危ないから、かなり重くしてあるのは当然である。
しかしお参りのときはなぜかいつも、それを忘れてしまう。
油断とは、おそろしいものである。
非常に軽いと予測していたものを動かそうとしたとき、それが予想外に重いと、スジを痛めそうになることがある。
特に冬場は要注意である。
このときも、予想外の重さのために肩が「グキ」となった。
「アダー!」
神前で思わず声を上げてしまう。
ぼくはまだ、礼拝と呼べる行為はなんにもしていない。
さまざまな誤謬を「ノーカン」にしてしまったので、ぼくがまず最初にやったことはといえば、神前で「アダー!」と声を出したことだけになる。
とつぜん神前にやってきて、礼拝もせずアダーと叫ぶ男。
神様もビックリしたのではないか。
再度気を取り直し、鈴を鳴らし、賽銭を入れ、二礼・二拍手・一礼をして、神前を後にし、帰路についた。
いろいろあったが、最終的には手順はおそらく完璧であった。
しかし帰路の最中に、肝心なことに気がついた。
「何も祈っていない」
いつも、そうだ。
「手順を遂行することに手一杯で、何も祈っていない」のである。
神社に行ったは良いが、参拝の手順で悩み、混乱し、アタフタしただけで、なんにも祈らないまま帰ってくる。
つまりぼくは神社に参拝に行ったのではなく、アタフタしにいったのだ。
このたぐいのアタフタは、年始の初詣も基本的には同じである。
それだけ普段から参拝していないからだと言われれば、ぐうの音も出ない。
神社での参拝について、ちゃんと手順を遂行し、ちゃんとお祈りができる人は、日本にいったい何人ぐらいいるのだろう。
やはり、神様に声を届けるのは難しい。
てらさん
… 爆笑 した ˘ ˘*
年の瀬に 大笑い …
ありがとう ˘ ˘*
あの 御父様の 言葉 も
相当
可笑しかった のだけれど
˘m˘*
コメントありがとうございます。
笑っていただけたのでしたら、ぼくのアタフタも救われるというものです。
今からいうのはなんですが、来年の暮れこそは正しくスマートに参拝できるように努力しようと思います。