愛を探しに。

ぼくはときどき、「この世には愛が足りない」と思うことがある。

とくに最近流行の兆しを見せている「無敵の人」のような無差別殺人的な事件を耳にすると、よけいにそう思う。

無敵の人に愛がないというのもあるが、そもそも無敵の人は世間から愛されてこなかったからそうなってしまうのかもしれない、とも思ってしまう。

 

そのような犯罪者に対して風当たりが強いのは理解ができるが、別に犯罪を犯したわけでもない人を誹謗中傷する人が意外と多いのも気になる。

芸能人などの有名人が何らかの失敗をしたとき、まるで鬼の首を取ったかのように追求するのである。

SNSの普及によってその傾向は最近さらに加速しているように見えることがある。

「いじめ」についても、いまだに解消されたという話は聞かない。

学校だけではなく昨今は企業でもいじめがあるそうだし、その方法もSNSを介してネガティブな情報を拡散したり村八分にしたりなど、陰湿度合いも高度化しているそうである。

いじめられる側にも問題はあるのかもしれないが、そもそも「いじめることに快楽や爽快感を覚える」という人のほうにこそ、重篤な問題があるのではないかとも思う。

世間から愛されてこなかった、あるいは愛を感じずに生きてきてしまったことで、そのような歪んだ性癖を獲得してしまったというのもあるのではないか。

貧富の格差や結果主義の教育、横並び主義、排他的な文化などが原因であるという話も聞いたことがある。

富の分配もかなり難しい課題のようだが、「愛の分配」もまた、かなり難しいのだろうと思う。

 

……ふと疑問に思ったのであるが、「愛が足りない」という、このぼくの感覚は、果たして正しいのだろうか。

もしかして、間違っているということはないだろうか。

というのも、愛というのは物質のように具体的なカタチがあるわけでもないから、その量を測ることも、数を数えることもできない。

愛というのはごく主観的なものだから、客観性を持たせることはできないのである。

計測することができないものを「足りない」というのは、すこしオカシイのではないか?

そもそも「この世界には愛が足りない」などと感じているぼく自身のこころに、勘違いが潜んでいるのではないか。

「この世界には愛が足りない」というような表現にはすこし高尚な趣もあり、問題提起の雰囲気を醸し出しているが、それはもしかしてただの「文句」なのではないか。

おのれじしんのフラストレーションやルサンチマンを位相転換し、見栄えを整えただけのズルくさい屁理屈なのではないか。

 

そこで、思いついた。

「愛は主観的である」という定義からすれば、それを生むのも、感じるのも、すべては主観に基づくということである。

ならば愛というのは「与える」「与えられる」事象ではなく、「発見する」たぐいの事象なのではないか。

愛は受動的な事象ではなく、能動的な事象なのではないか。

そのような観点をもって、散歩に行ってみたのである。

そうしたら、「この世は愛に満ちている」ということを発見したのであった。

 

まず家を一歩出ると、そこにはアスファルトの道路がある。

「アスファルトは、愛だ」

意図的に愛を探そうとすると、そのように思うのである。

もし土まるだしの道路だとどうなるか。

ぼくは個人的に土まるだしの道は好きである。

しかし雨が降ればドロドロのズルズルのぐっちゃぐちゃになる。長雨が続けば破傷風菌などの温床になり、転んで怪我をしただけで死線をさまよう場合さえある。

乾燥すると風で土煙が舞い上がり、それが目に入ると眼球を痛める場合もある。ある種の菌が繁殖した土ならば、失明の恐れさえある。

多くの自動車は道を走れなくなり、走れたとしてもエネルギーがよけいに多く必要になり、環境破壊を加速する。

もし急病人が出た場合でも、舗装されていない道路が多いと救急車の到達にも時間がかかる。火事などの災害でも同じである。

このアスファルト道路のおかげで、知らず知らずのうちに命を救われていたこともあるのかもしれない。

 

視線をすすめると、ミゾがある。

「ミゾは、愛である」

いつもまったく気にしないミゾであるが、じつはこれがあるおかげで、ぼくたちは正常な日常を送っていられる。

側溝がなければ降った雨はそこいらじゅうに溜まってしまい、まともに歩けなくなるだけでなく、それこそまた悪玉菌の繁殖を助長する。

下水という治水をしてくれているおかげで、清潔で安全な生活を送ることができているのである。

ミゾから下水にまで思いを馳せれば、強力な愛を感じる。

もし下水がなかったら、ぼくの家はウンコまみれになるであろう。

ぼくがウンコまみれにならずにすんでいるのは、下水のおかげである。

 

さらに歩いていくと、電柱がある。

「電柱は、愛である」

電柱はやめて地下に電線を埋めようという動きもあるが、いずれにせよ、デンキである。

この電柱があるおかげでぼくの家にデンキやインターネット回線が入ってきて、便利な生活を送ることができている。

「そのぶん、デンキ代を払っているだろうが。だから有難がる必要なんてない」という向きもあるかもしれないが、それならば、デンキをやめてしまえば良いと思う。

文句を言うのは自由だが、じぶんでデンキを作り出せない以上は、これを提供してくれることに対し全面的に文句を言うことなどできない。

ぼくのような、ただのおじさんの家にも、間違いなくデンキを届けてくれている。

愛である。

 

公園がある。

「公園は、愛である」

合理性だけでいえば、公園など不要なのである。

しかし、健康で健全な生活を送る権利のために、このような無駄な空間さえ作ってくれているのである。

「それも税金でやってんだ、税金は俺が払ってんだから、当然だろ」という向きもあるかもしれないが、それならば、税金を払うのをやめてしまえば良いと思う。

税金を払うのはやめて、公園を利用するのをやめてしまえば良い。

文句を言うのは自由だが、じぶんで公園を作れない以上、これを提供してくれることに対し全面的に文句を言うことなどできない。

ぼくのような、ただのおじさんでも、無料で自由に利用が可能な空間なのである。

愛である。

 

自動販売機がある。

「自動販売機は、愛である」

べつに、ジュースなどスーパーで買えば良いのである。

どうせヒマな小金持ちのオッサンが小遣い稼ぎでやってんだろ、というのもあながち間違いではない。

しかしこの自販機には、じつは強力な愛がある。

ぼくは震災経験者だが、この飲料自販機は「災害時のストック」としての機能もあるのである。

飲料水を一箇所にストックしていても、その場所が大破してしまったら全面的にアウトになるし、もし道が閉鎖されて孤立状態になったら、いくらストックがあっても届けることができず、もはやお手上げである。

しかしこの自販機があれば購入ができるし、もし電源が止まっていても最悪は破壊して中身を取り出すことができる。

とはいえ破壊することができない非力なひともいるので、最近は「災害対応自販機」も続々と設置されている。

食料も当然重要だが、災害時においては水分の枯渇は喫緊の事態である。

自販機は無数の箇所に設置が可能で、災害時の住民の生命維持という点でかなり重要である。

愛である。

 

もうキリがないのでこのへんでやめておくが、「愛を探しに」行けば、ぼくの家の周囲は「愛だらけ」であったことに気がつく。

「青い色のものを探す」よりも、「愛」のほうが大量に見つかるのである。

大漁である。

愛の大豊作である。

なんでもないただの階段でさえ、それはとてつもない愛である。

 

愛を、探しに行ってみた。

そうしたら、この世は愛でできていた。

 

やっぱり愛というのは「探す」ものだし「見つける」ものなのだと思う。

ほんとうはそこに「ある」のに、それを「ない」としてしまったら、それでもう完全に消えてしまうというのが「愛」である。

道端の一輪の花よりもはかなく、繊細な存在、それが「愛」であった。

 

愛は、見ようとしない人にはいっさい与えられない。

しかし、事実として、この世界は愛であふれている。

この特性は「チャンス」とよく似ているのかもしれない。

ほんとうは遍在しているものなのに、見ようとしていないから、見つからない。

 

快楽物質「セロトニン」も、同じなのだそうである。

セロトニンがいくら豊富でも、セロトニンを受け入れる「レセプター(受容体)」がうまく機能していなければ、どうしようもないそうである。

愛も同じで、いくら世界が愛に溢れていても、「愛のレセプター」が壊れていたら、どうしようもない。

案外、レセプターの不具合のほうが多いのかもしれない。

 

 

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