お風呂の湯量問題

風呂掃除をしているときに、ボタン類のあるところを触ってしまったのか「ピッ」と音が出た。

そして、

「ユリョウヲヘンコウシマシタ」

という女性の声がした。

ぼくは咄嗟に掃除の手を止め、

「ユリョウって、何?」

と聞き返した。

しかし彼女は一切の回答を拒否し、黙した態度を頑なに変えようとはしないのであった。無視である。

顔は見えないので声から察するに、この声の主はおそらく30代後半で、メガネをかけているような気がする。

とても真面目そうな声ではあるが、あまり愛想は良くないかもしれない。

必要なことは喋るがそれ以外余計なことは述べないミニマリスト的特性を持ち、きっと公私混同はしない女性であろう。

会社の飲み会には行かないタイプではないか。

無愛想なのは、年齢から推測すると、もしかしたら更年期障害という可能性もある。

 

などとキカイの声に対する妄想するのはそのへんにしておいて、初めて知ったのである。

ぼくの家の風呂は、ボタンで「湯量」が変更できるのだった。

知らなかった。

この家に住んでから15年近くになるが、こんな機能があるのは初めて知った。

デジタル表示をよく見てみると風呂桶の断面図のようなものがあり、通常の湯量を示す目盛りから3つほど下のところまで湯が溜まっている表示になっていた。

さっき湯量を「増やす」ボタンを押したのか「減らす」ボタンを押したのかがわからないが、1回だけ押した。

ということは、もともとは通常の湯量から「マイナス2」、あるいは「マイナス4」だったことになる。

いずれにせよ、ぼくは毎日通常よりけっこう少ない量の風呂に入っていたのだ。

 

ぼくは思わず、ハタと膝を打った。

洗剤で泡まみれのスポンジを持っていたから、ズボンがビショビショになってしまったが、納得したのである。

うちの風呂はいわゆる「一坪タイプ」と言われるもので、中途半端に脚を伸ばして湯に浸かれるものである。

おそらく最近の家庭用の風呂では標準的なものだと思う。

ぼくには「冬場に風呂に入るたびに風邪を引く」「冬場に風呂に入ると肩が痛む、ヒザが痛くなる」という不可解な特性があり、この原因を風呂のカビ類ではないかと疑っていた。

あるいは、自律神経の不調で免疫力が低下していて風邪を引きやすいのかもしれない、とも疑っていた。

全然関係なかったかもしれない。

 

「湯量」が少なすぎたことが原因だったのではないか。

つまり、ぼくは単純に、毎晩「湯冷め」をしていたのではないか。

というのも、風呂桶に浸かるといつも違和感があるのである。

湯船に横たわり、首までしっかり湯に浸かると、ヒザやフトモモが湯から飛び出す。

脚を完全に湯に沈めると、こんどは肩や背中が露出する。

常にヒザか肩のどちらかが常に外気に触れている状態なのである。

冬場は寒いから、湯船の中でイモムシみたいに伸びたり縮んだりして蠕動を繰り返していた。

銭湯などに行くと、全身しっかり温もったあとは

「ああー、いい湯だった!」

という感慨があり、真冬でも薄着で外へ出ても平気なぐらい全身がホカホカしているものである。

しかし我が家では入浴後は家の中なのに寒気を感じていて、クシャミをすることさえしょっちゅうだった。

 

「家の風呂というのはこういうものなのだ」と思って生きてきた。

しかし今日、その観念は崩壊した。

試しに湯量を「標準」にして入ってみたのである。

すると、なんということであろうか!

首までしっかり湯に浸かっても、ヒザが湯から飛び出すことがないのである。

あちらを立てればこちらが立たず的ダブルバインドなどなく、全身がしっかり湯に浸かった状態が顕現されたのである。

もはやイモムシのようにクネクネと湯船の中でのたうちまわる必要はなく、一枚岩のごとく不動のまま黙然と停止したままで良いのであった。

その状態で10分前後浸かってから風呂を出たら、まるであの銭湯での湯上がりのような感慨がおのずと漏れるのであった。

「ああー、いい湯だった!」

クシャミも出ず、息苦しさも寒気もなく、ホカホカで、肩やヒザが痛くない。

キモチイイ!

家の風呂というのは、こんなにも気持ちが良いものであったのか。

 

なぜあんなに少ない湯量で設定されていたのか、原因は不明である。

幸いぼくの両親や娘は身長が150cm~160cm程度で、それぐらいの湯量でも全身がしっかり湯に浸かるそうだ。だから誰も気が付かなかった。

問題は、ぼくである。

ぼくは、なにをしていたであろうか。

そう、ぼくはなにも疑うことなく、少ない湯の中で少しでも湯に触れる時間を増やそうと、ただ湯船のなかでクネクネと蠕動運動をしていたのである。

何が原因で、とか、どうすれば改善されるか、とか、そんなことは全く考えなかった。

お湯の量が変えられるとは思いもよらなかった、というのはある。

しかし、それはそれとしても「手動でお湯を足す」という行為さえもいっさい行わなかった。

 

とても恥ずかしいことであるが、ぼくは一時期けっこう悩んでいたことがあるのである。

「ぼくは神経質で、繊細で、考えすぎる傾向がある」

ああ、恥ずかしい。

とても、恥ずかしい。

いったい何を言っておるのか。

なんにも考えていないではないか!

風呂に入るたびに寒気を覚えるのであれば、なにかしら気がつき、あるいは工夫しそうなものであるが、なんにも気がつかなかったし、なんにも工夫しなかった。

湯船の中で腔腸動物のようにクネクネと動き回ることはしていても、「お湯が少ない」とはまったく考えなかったのである。

 

だからある意味、安心したのである。

ぼくは「神経質で、繊細で、考えすぎる」などという、そのような高等な精神性はあまり持ち合わせていないようであった。

あまり考えない人のようであった。

すくなくとも、悩むほどの傾向ではなかったようである。

もし今日、風呂掃除でたまたまボタンを誤って押すことをしなければ、風呂桶で蠕動することを一生続けていたことだろうと思う。

そのような人を「神経質だ」とかいったら、本物の神経質さんに失礼というものである。

 

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