最近でいちばんのおすすめの本なのだ。
つい先日も、東京で数百人の人が集まってコロナワクチン反対のデモもやっていたそうである。
確かに急ごしらえのワクチンについて不安を覚えるのは理解できるし、できることならワクチンのようなよくわからない人工物を体内に入れずに済ませたいという気持ちもわかる。
しかし、彼らの論拠を調べてみるともはや噴飯ものである。
「コロナなんて存在しない」
「ワクチンにはナノマシンが混入されていて政府に監視される」
「コロナは闇の勢力によって意図的に仕組まれたものだ」
「ワクチンは殺害兵器だ」
これが小学生が言っているのならまだわかるが、いいオッサン・オバハンまでもが信じていたり、中には大学教授などのインテリも混じっている。
これはいったい、どういうことなのか。
以前から不思議に思っていたのだが、この本はこの理解にとても役に立つと思う。
おそらく、とくに近年の陰謀論というものをここまで詳しく解説してくれている本はほかにないのではないかと思う。
ある考え方がどの考え方と結びついて生まれてきたかなどを、歴史的な事実をもとに説明してくれる。
これは、とても良い本である。
ネットで流れている話を鵜呑みにしてしまう人は、絶対に読んでおいたほうがよい本だと思う。
ていうか、ぼくはこういった本を小学生とか中学生の推薦図書にすべきではないかとさえ思う。
ぼくの身の回りでも、案外多いのである。
とくにヨガ教室で一緒だった女性にその傾向が高く、陰謀論にイカれてしまって息子にマスクをさせるなと学校にクレームをつける人さえいる。
いいオッサンで中小企業の経営者なのに、コロナは茶番だとかいって飲み屋街をウロつく人もいる。
有名な会社の営業マンなのに、フェイスブックで陰謀論を投稿しまくっている人もいる。
彼らは総じて、バカではないのである。
そこそこいい大学を卒業していて、仕事もちゃんとしているのに、どういうわけかそういう話に「コロっと」イカれてしまうのである。
どうやら、陰謀論にハマりやすいひとは、バカよりもむしろそこそこ賢いひとに多いのだそうだ。
だから、本物のバカはあまり心配しなくてよい。
しかし皮肉なのは、賢い人は油断をするとバカよりもバカになってしまうということである。
ヨガ、占い、ヒーリング、スピリチュアル。
この本の良いところであり、いっぽうですこし物足りないのは、そういった陰謀論と相性が高い傾向にあるさまざまな指向性についてはとくに否定をしていないことである。
おそらく、この著者さんは良識のある寛容なひとなのだろうと思う。
個々人の信条にまでは意見は述べず、淡々と事実を述べるにとどめている。
とても爽やかであり、そしてとても、物足りない。
ぼくは個人的に、ヨガや占い、スピリチュアルのようなことは、できることなら「やめる」べきだと考えている。
(ここでいうヨガは神秘に傾注しているヨガのことを言う。純粋な肉体・精神操練系のものは除く)
こういうものに傾注しているひとは非常に高い確率で重大な事態において非合理な判断をするようになるからである。
というよりも、そもそもそういった神秘系の物事に関心を寄せるときはすでに正常な判断を失っている可能性が高いのかもしれない。
この本にも書かれているとおり、ぼくの実体験でもヨガ・菜食主義・自然派志向・ヒーリングなどの指向性を持つ人は陰謀論者であることがけっこう多い。
おそらく、心理的な傾向が関与していると思われる。
端的にいえば、「現世否定」の感情が、どこかに居座っているような気がするのである。
星の位置や手のシワ、誕生日や名前などから運勢を判定できるなどという指向性や、手のひらや石など、有機・無機物のエネルギーを照射すると病気が治るなどの志向性は、完璧にすっかり捨ててしまうべきであるとぼくは強く思う。
非常に、強く思う。
もし「占いと神秘への反対デモ」というのがあったら、参加したいぐらいである。
というのも、ぼくは以前そういうものに傾注していた時期があったからである。
そして年月を経て、そのような論理は「完全に誤謬」であることを悟った。
そういうものは「完全に」まちがっていたのである。
だから金輪際、そういうものには近づかないことにした。
そうしたら皮肉なことで、神秘から身を引くと同時に運勢は極度に好転したのであった。
あたりまえである。
不運というのは「現実」で起きていることである。
悩みというのは「現実」で起きていることである。
不運というのは「いま」起きていることである。
悩みというのは「いま」起きていることである。
だから不運や悩みの原因を「いま・現実的に」探り、「いま・現実的な」解決方法を模索し、「いま・現実的な」努力をしなければならない。
その不運は、論理の中ではなく、いま・現実で起きていることだからである。
しかし神秘に頼っていると、不運の原因を現実的に探ることをせず、現実的な解決方法を模索せず、現実的な努力もしないようになっていく。
何百年も前の、もはや検証不能な怪しげな論理をもとに仮説を立てていく。
「いま」を生きているのに「むかしの」論理を持ち出してくるのである。
そして計測もできず、再現性もなく、分散分析的にも有意でない結果をもって有意とし、えせ論理に溺れ、濁った理想に遊ぶようになる。
これは不運を回避あるいは浄化するためには、最も「わるい」方向性である。
絶対に解決できない方向性である。
不運をぶっ飛ばしたければ、かならず現実と正面衝突しなければならない。
かならず、具体的な行動を起こさねばならないのである。
神秘に傾注するのは、努力をしているのではなく、妄想をしているのである。
「目覚め」を謳う人や団体こそが、深い深い眠りの中にいる。
「真実」を謳う人や団体こそが、真っ赤な虚偽の中にいる。
この世はまさに、皮肉である。
陰謀論が良いか悪いか、などという議論のまえに、
「なぜ私は陰謀論に興味を持っているのだろうか」
ということを徹底的に問い詰める必要があると思う。
そしてそのためには、情報が必要だ。
いま信じかけていることが陰謀論に属するのかどうかを、まず知らなければならない。
そしてその説が、どのような経緯で生まれてきたのかを知らなければならない。
そのための良い資料が、この本だと思う。