日蓮宗と日蓮正宗の違い

ぼくは先日、思わずハタとわがヒザを打ったのであった。

(ヒトのヒザを打ったりはしないが)

 

今はもう脱会しているが母親がむかし創価学会員だったので、ぼくは幼少のころからその教義を教え込まれていた。

しかし親子とはふしぎなもので、母もぼくもほぼ同時に創価学会の勉強会で喧嘩をして脱退することになった。

原因もほぼ同じで、いわゆる「勉強会」と称する会合で質問をしたところ、その場のエラいヒトから

「あなたは座を乱すからもう来ないでください」

と言われた。

そこで「質問をしたらダメな勉強会なんて、勉強会とちがうだろ! それなら洗脳会だろうが!」

といって椅子を蹴っ飛ばして出ていったのだった。

親子して、へんなところで気が強いのである。

母は以前聞いていたことと、いま聞いていることの内容が全然違うから、その真意を理解しようと質問をしたらしい。

ぼくは法華経が歴史的には釈迦の直伝ではなく後世の創作物であるという事実についてどう考えるのか、という質問をした。

ぼくも母も、べつに創価学会の教えに喧嘩を売ったわけではなく、純粋に疑問だったので「まんまるおめめ」で質問をしただけなのである。

しかるに勉強会のおエラいさんがたは、なにも質問には答えようとしないばかりか、出ていけというのだった。

来いというから行ったのにそんな冷酷な待遇を受けたのならば、こんなクソ会合出てられっか、バカに付き合ってるほどヒマじゃねえぜ畜生め、まだ本物の畜生のイヌと喋っていたほうが勉強になるぜといって江戸っ子的な悪態で出ていってしまうのは人情ではないだろうか。

 

さて、そんなことで一応は「勉強会」なるものには出ていたので、ある程度は理解しているつもりだった。

しかし、わりと根本的なことをぼくは知らなかったのだった。

「日蓮宗と日蓮正宗の違い」

ううむ。

むしろ創価学会の内向きの偏った教義ばかりを学んだせいで、非常に根本的なところは理解していないのだった。

そこで調べてみて、ヒザを打ったのである。

そうだったのか!

 

違いはもちろんいろいろとあるのだろうが、

「日蓮を仏とするかどうか」

というところが、かなり重大な分岐点であるようなのだ。

創価学会〜大石寺系は日蓮仏教では「富士門流」という流派に属し「日蓮本仏論(日蓮はホトケであるとする説)」を支持しているのだそうだ。

つまり日蓮は僧や菩薩ではなくもはや釈迦さえをも超える「久遠本仏」であるというのである。

いっぽうほかの日蓮宗では日蓮を上行菩薩の生まれ変わりとはするが、仏ではないとするようだ。

そこで創価学会〜大石寺系では日蓮を「日蓮大聖人」と呼び、ほかの日蓮宗では「日蓮聖人」と呼ぶ。

日蓮の呼称だけで、その門流がバレてしまうということでもある。

ちなみに、むろん創価学会は否定しているが、実情としては「池田本仏論」というのも創価学会内では出てきているという話もある。

創価学会を拡大させた池田大作という人物を日蓮の生まれ変わりとし、よってすなわち「本仏」であるという思想である。

ふつうに考えれば、ホトケというのはデバッグによって輪回という無限ループから脱出できた人のことを指すのだから、生まれ変わっている時点でもはやホトケではないといえるはずなのだが、そのような話は創価学会内でしてはダメなのであろう。

「出ていけ」といわれるのがオチである。

 

日蓮を、ヒトとするか、ホトケとするか。

この論議はセム系一神教における「イエスをヒトとするかカミとするか」という議論を彷彿とさせる。

一説によると、宗教の原理化は「絶対化」にかかっているそうである。

すなわち、相対的な事象を汎化し、論理の跳躍によって「絶対」にまで昇格させたとき、宗教は原理化してカルト宗教のようになるそうである。

そういう意味でいえば、キリスト教というのは根本的に原理主義をはらんでいるともいえるのかもしれない。

原理主義というのは民衆を団結させ戦争に利用しやすいので、あえて原理化したという歴史ももしかしたらあるのかもしれないが。

なおイスラム教では開祖のムハンマドは尊敬に値する立派な人物ではあるが、あくまでヒトであって、けっして神ではなく信仰対象ですらないとしている。

そういう考え方ならイスラム教には原理主義など登場しないはずなのだが、実際にはイスラム原理主義というのはよく聞く。

どうやらイスラムの場合はヒトの絶対化ではなく「歴史の絶対化」を行っている場合があるようである。

すなわちウンマ(信仰共同体)が施行されたころの時代を黄金時代とし、その一時期を絶対化し、世界は生活様式も思想もその時代に戻るべきだという考えである。

よって現代を否定し、破壊し、黄金時代を取り戻そうという方針のようである。

 

ヒザをハタと打った理由は、日蓮宗と日蓮正宗の違いを知っただけではない。

「なぜ創価学会は原理的なのか」

という長年の謎が、なんとなく理解できたからである。

折伏と称するあの強引で激烈で品位のない行動の裏にあったのは、創価学会を含む富士門流が孕む原理主義的思想(日蓮本仏論)が原因のひとつだったのかもしれない。

原理主義は相対的なことを絶対化するがゆえに教義がシンプルになるというメリットがある。

シンプルが故に虚飾を排し重要事項のみを実行するという「ちからの集約」を行いやすい思考フォーマットがある。

相対性や複雑性を理解するためには多様性への寛容さがまず第一の必須条件なのだが、原理主義にハマりやすいひとはこの多様性を認めることが苦手な傾向にある。

シンプルで単純なことしか理解ができない人は原理主義と相性がよく、信念を硬直化させて異論を攻撃するような行動を起こしやすいようである。

 

行動力に欠ける人というのは、じつは気が弱いとか臆病だとかいうことが原因なのではなく、この「多様性と複雑性への寛容さ」が高いレベルにあることも多い。

いろいろな可能性やさまざまな選択肢を平等に扱うことができてしまうがゆえに、優先順位がつけられなくなって、優柔不断になってしまうのである。

いっぽう行動力が優れているひとというのは、原理主義的な傾向が強いことも多い。

本来は相対的で複雑なことでも、えいやっ、と暫定的に絶対化してしまえるのである。

そうすると短時間で優先順位のヒエラルキーが構成できるので、迷いが少なくなり、行動を起こしやすくなる。

むろんこれにはデメリットもあって、失敗をする可能性が高くなる。

しかしよくしたもので、原理的行動を好むひとは「失敗は成功の母である」とか「成功は最悪の教師である」とかいう言い回しを好み、失敗や間違いを悪いものとは定義しないのである。

これも一種の自己防衛なのかもしれない。

むろん多様性や複雑性への親和性が高いひとにもデメリットはあって、「いろいろ考えて結局なにもできなかった」というジレンマによく陥る。

そこでそういうひとたちは最終的に「なにもしない」という無為の美学で自己を守ろうとするようになったりもする。

 

原理主義にせよ、多様性支持にせよ、つまるところは「自己防衛」であることも結構多いのかもしれない。

ぼくは個人的に、本来的な仏教というのはそういった自己防衛的な本能に依拠するようなことではなく、もう一段次元の高いところにある哲学なのではないかと思ったりもする。

すなわちエゴを超越したスーパー・エゴの領域での知の活動の推進である。

では、じゃあ結局どうすればいいんだと言われたら、それはよくわかないんだけれども。

 

うそ。

 

よくわからない、じゃななくて、ぜんぜんわからないのー。

わからないから、ぼくはきょうも、にこにこわらって生きていくのだ。

 

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