君は何も、悪くない。

類は友を呼ぶのか、あるいは最近はそういう人が増えているのか、友人知人にパニック障害のひとはけっこう多い。

またウツ病や自律神経失調症の人もけっこういる。

そういう人に対して言ってあげるとほぼ100%上機嫌になる魔法の言葉がある。

「君は何も、悪くない」

この言葉を聞くと、中には感極まってか泣き出すひともいるぐらいである。

 

一般に精神的な病を抱える人は常識的で賢く、真面目で勤勉な人が多いといわれる。

じっさいにぼくの周囲にいる「病んでいるひとたち」にも、そのような人は多い。

そしてまた一方で、べつの共通点もある。

パニックやウツ、自律神経失調症を患うひとというのは、いわゆる「陰謀論」にがっつりハマるような人は少ないということである。

多少そういうものに心がゆらいだとしても、ある一定のところでブレーキがかかり、ちゃんと戻ってくるのである。

精神的な病を患うひとはもともと賢く常識的な思考をするひとたちなのだから当然……ともいえるのだが、じつは案外そうとは言い切れない。

というのも、陰謀論にハマるひとたちも同様に、常識的で賢く、真面目で勤勉な人が多いからである。

つまり、こころを病むひとも、陰謀論にはまって闇落ちするひとも、ともに似たような性格的特性を持ちあわせているようなのである。

似たような特性を持つのに、陰謀論に向かうひとは精神・神経的な症状をあまり訴えることはなく、元気でエネルギーにあふれている感じの人が多い。

母数が少ないから統計をとったわけではないが、この共通項にはなんらかの示唆が含まれているのではないかと想像する。

 

こころの病を抱えるひとと陰謀論に向かうひとにはともに正常性を逸しているという表面的特性だけでなく、常識的で賢く真面目で勤勉という内面的特性にも共通性を持つ。

しかし、その異常性の発露の方向性はまったく異なっており、むしろ真逆の様相を呈しているといってもよい。

そこでぼくは想像するに、この両者の違いというのは精神の強さ弱さ、あるいはこころのエネルギーの多寡、また知性のレベルなどではなく

「自罰傾向の程度」

なのではないか。

 

とくに、パニックやウツ、自律神経の失調を患う人の多くが非常に自罰的な傾向を持っている。

これは言い換えれば罪悪感が過剰であるともいえる。

良くないことが起こったとしたら、それは原則自分のせいであると考えがちなのである。

だから良くないことが起きたらそれを解消しようと、いっしょうけんめいにがんばる。

また、良くないことを回避しようと、いっしょうけんめいにがんばる。

自分の能力や知性、人間性などを向上させようと、いっしょうけんめいにがんばる。

会社やコミュニティーの中で役に立とうと、いっしょうけんめいにがんばる。

ひとに迷惑をかけないようにしよう、ひとに怒られないようにしようと、いっしょうけんめいにがんばる。

しまいには、パニック障害やウツになったら、こんどはそれをいっしょうけんめいに治そうとがんばる。

とにかく、がんばってばかりなのである。

そしてその努力の裏には、じつはおおいなる恐怖がねそべっている。

自身が堕落し価値のない人間になってしまうことに、強烈な不安と恐怖を感じている。

ちょっとでも油断すると、じぶんはダメになっていってしまうのではないかという神経症的傾向を持っている。

すなわちじぶん自身に対しては「性悪説」のようなものを抱えているのかもしれない。

おそらく、だからこそ、そういうひとには

「君は何も、悪くない」

ということばが琴線に触れるのではないかと思うのである。

じぶんのことを本質的にわるい、だめだ、という観念を持っているからこそ、「そんなことないよ」と言われたときに、ほっとしているのではないかと感じるのである。

 

いっぽう陰謀論に強く向かうひとというのは、本質的に自信過剰であることが多く見受けられる。

かんたんに言ってしまえば、もともとからして「わたしは何もわるくない」と考える指向性が高いようなのである。

だからこそ、「世の中には巨悪があって、それがわたしを阻害している」という考えに同調しやすいのかもしれない。

しかし、これは単純に「他罰的である」というだけではなく、そこにはやはり強い葛藤が存在していると見るべきである。

なぜ陰謀論のようなことを肯定してしまうのかというと、結局はなんらかの葛藤を抱えているのである。

たとえば、じぶんが抱えている理想が実現されないというような葛藤である。

求めている理想が高ければ高いほど葛藤は強くなり、もし基本的指向性に他罰傾向が強かった場合に陰謀論に指向性が傾くように見える。

 

もうすこしさかのぼって見てみると、パニックやウツ、自律神経失調などを患うひとたちは、幼少期は両親が厳しく、道徳的あるいは何らかの宗教的ドグマに抑圧されていたことが多いように見える。

ちなみにぼくの周囲にいるこころの病系の人は全員、親が創価学会である。

いっぽう陰謀論に傾くひとたちも同様に両親が厳しい傾向にあるように見える。

しかしそこには道徳的あるいは宗教的な抑圧はあまり垣間見えず、もっとストレートに学業やスポーツ、その他能力向上に関する叱責が強く、「出世」や「一番になること」「勝つこと」を強要されてきた、などが多いように見受けられる。

ここで見える共通項は「幼少期の抑圧」である。

ただし種類は異なり、前者は「倫理的な抑圧」であり、後者は「競争的抑圧」である。

まあこれはあくまで、ぼくの周囲のひとたちという少ない母数での観察であるが。

 

しかしこうして考えたとき、ある条件をクリアしない限りは、この世からはこころの病や陰謀論は「なくならない」と見るべきであろう、というのが現時点でのぼくの考えである。

つまるところ、いずれにせよ幼少期に過剰で理不尽な抑圧を与えられたことが大きな原因のひとつになっているようだからである。

過剰で理不尽な抑圧を開放することが当然その「条件」なのだが、それはまず幼少期に行われるべきであり、もしそれがかなわない場合(すでに成人している場合など)は、成長後の開放が必要である。

これをもっと単純に言えば「ゆるし」ともいえる。

「いやし」ではなく、「ゆるし」なのである。

いくら四の五の癒やしたところで、こころがすっかり「ゆるされて」いなければ、かならず単純なきっかけでこころの闇は再起動するものだからである。

この条件をクリアしない限り、こころの病も、陰謀論もこの世から消えることはない。と思う。

 

なぜキリスト教が破竹の勢いで広まったのかということについて、面白い説がある。

イエスが生きていた当時、ユダヤ教は非常に戒律が厳しくて、一日に守らなければならない掟が数え切れないほどあった。

安息日は何もしてはいけないので、寒くても火さえ起こすことが禁じたれていたらしいし、我が子が病気でも手当をしてはいけなかったそうである。

到底理不尽なものも数多く含まれていたのだが、それを守らねば神の怒りを買いかならず地獄に行くと言われていた。

民衆は日々すさまじい抑圧を受けており、それが原因で心身症を患う人が大量にいたらしい。

そこへ若いイエスという男性があらわれ、権威をもって「神はあなたをゆるした」と宣言して回ったのである。

いわゆる奇跡といわれるイエスの病の癒やしは、もしかしたら心的ストレスからの開放によるものだったのではないか、とも言われている。

そしてその後イエスはユダヤ教の神官の怒りを買って殺されるのだが、この事件をして「イエスが民衆すべての罪を背負って死んでくださった」という解釈が生まれたのである。

現在のぼくたちからすれば荒唐無稽のようであるが、当時のユダヤ教の理不尽極まりない大量の戒律によって心身ともに束縛されていた民衆にとっては、これはまさに「福音」だったであろうと思われる。

こうして、民衆は自身を抑圧する戒律と、何よりも「守らねばならないという自分自身の抑圧」から開放されたのである。

この開放のベクトルは他の地域にも向かい一気に広まった、というのがその説である。

また、日本で浄土真宗が最も普及したのも、同様の理由なのだそうである。

仏教には戒律が多く、あれはするな、これはするなという抑圧が多かったし、身分差別も貧富の差も甚だしく、民衆は貧しさと死の恐怖に日々苛まれていた。

また当時は女性は成仏できないという説も有力だった。

そこへ「阿弥陀様は全員を救ってくれる」と説いて回る僧があらわれた。そして親鸞に至った時、もはや仏教の戒律すら守る必要はなく、阿弥陀様は悪人でさえゆるされるのであるから、通常の人々が許されざるはずもなく、老若男女問わず極楽往生することが決定されているのである、と説いた。

これがはなはだしく民衆に受け入れられたことの証拠に、日本では浄土真宗の信徒が最も多くなった。

この図式は、ユダヤ教におけるキリスト教の「ゆるしの構造」とまったく同じといって良い。

 

こころの病にせよ陰謀論にせよ、「そこにいる人」はみな一様に「ゆるし」を求めているのだと思う。

本当のことをいえば、ゆるしというのは外部にはなく自分自身のこころのありかたひとつで決まるものである。

しかしそんなことを言ったって、それがスっとできるような人は数少ないのも現状である。

だから、「わたしをゆるしてくれるなにか」を、人々は希求するのだと思う。

 

最も必要なことは、「むだな束縛を、じぶんにも、ひとにも与えない」ということだと思うのである。

この世からこころの病と陰謀論を消す、もっとも効率的で重要な条件。

それは「しばるな、ゆるせ」ということである。

しかし、なぜか人は、それをしない。

ほんとうはゆるされて、しあわせになりたいのに、しあわせになるためにじぶんを、わが子を、ひとびとを、しばりつけるのだ。

ながいながい人間の歴史からみて、人間とはきっと「そういうもの」なのだろうと思う。

もともと「ゆるす」ための宗教なのに宗教こそが「筋金入りの緊縛師」となっていく数多くの例を見れば、もうそのようにしか考えられない。

ひとはみな、しばられるのが好きなのだろうか。どMなのだろうか。

 

開放してくれる「救世主」がいてくれれば良いのだが、そうもいかない。

宗教やスピリチュアル、カンセリングやヒーリング界隈には、きもちわるい人が多い。

なかには、ひとの弱みにつけこんで、詐欺をはたらくひとさえいる。

そもそもイデオロギーや理屈や知識にこころを縛られているようなひとが、他人のこころの束縛を解くことなど到底できるはずもない。

かえって縄の結び目を増やして、ややこしくしてしまうだけになるだろう。

 

だからじぶんで、いうのである。

権威を持って、いうのである。

わたしはなにも、悪くない。

わたしはもう、ゆるされた。

だからわたしも、すべてをゆるそう。

 

 

  • ぽぽんた より:

    てらさん
    ここちょっと
    微妙に
    深いアレですよね…

    >阿弥陀様は悪人でさえゆるされるのであるから、通常の人々が許されざるはずもなく

    善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや
    https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E4%BA%BA%E3%81%AA%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A6%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%82%92%E9%81%82%E3%81%90%E3%80%81%E6%B3%81%E3%82%93%E3%82%84%E6%82%AA%E4%BA%BA%E3%82%92%E3%82%84-2236687

    もんのすごい
    すんげえこと
    言うとります

    お阿弥陀さまの
    お慈悲

    いまの
    てらさんの
    心境
    そのもの
    かも しれないけれど
    (o^-‘)*

    • TERA より:

      親鸞、すごいですよね。
      悪人正機説は「がんばって良いことをして天国に行こう」とか、「天国にいくためにいいことをしよう」っていう偽善を戒める意味なんじゃないかなって思ったりします。
      じぶんの善行の目的を客観的に観察したとき、功徳やよい因果を得たいとか、地獄に行くのはイヤだから、というような動機が強いのなら、それはただの利己主義になってしまう。

      究極の他力本願は自力本願を超えるということなのでしょうが、この位相になるのも、じつはものすごく困難なことです。
      いわゆる妙好人のようにほんとうに自我を捨て切って完全に阿弥陀様にすがる状態になるのと、いっぽう自力で修行して即身成仏を目指すのとでは、現実的には難易度としてほぼ同等だろうと思います。
      ですが浄土系の思想ではよく、他力本願は誰でも進める道だから現実的で、自力本願は忍耐力や精神力など恵まれた才能を持つ人でないと不可能だから意味がない、というようなことを言うひともけっこういるので、ぼくはある意味かなり危険な思想だなと思います。これって原理的なんですよね。
      「ほんとうはとても難しいことを、あたかも容易なように見せている」からです。

      完全にエゴを捨て去って完全に他力にすがる心境になれるような人は、自力本願系の修行をしてもすぐに頂点を目指せると思いますし、逆に自力本願系の修行すら完遂できないような人は他力の彼岸にも絶対に到達できないはずです。
      だから結局どっちが良いとか悪いとかの話ではなくて、「どっちがとっつきやすいか」だけの話のような気がします。入り口の話。

      ただ浄土系のうちとくに親鸞の教義は「こころの解放」つまりカウンセリングという意味でとでも意義があるんじゃないかなと思います。
      いまの世の中はどんどん自力本願が加速していて、自力本願のわるいところは人が自罰的になっていくんですよね。罪悪感や劣等感をいだきやすくなり、そのことで、どんどんこころが抑圧されていく。
      抑圧されたこころを開放するという意味では、とてもすばらしい教えだなあとすなおに思います。
      「じぶんでがんばる」ことに疲弊してしまったひとにとっては、おおいなる救いになるはずです。

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