最近、もしかしたらぼくは「天然さん」なのではないかと強く疑っている。
じぶんではいろいろなことを通常まじめに真剣に考え、問題があれば正しい論理によってその解決策を模索していると認識している。
しかし明らかでゆるぎない事実を見れば、その認識は大幅に誤っていると考えざるをえない。
その明らかでゆるぎない事実とは、
「いくら努力しても自律神経の不具合が治っていない」
という、まごうことなき事実である。
ヨガなどのメソッドを実行し10年近い年月をその解決に費やしてもほとんど状況が改善していないのであれば、それはやっぱり、なにかまちがっていたのではないか。
自律神経とはなにか。
交感神経と副交感神経のバランスとはなにか。
自律神経の不調が起きるのには、どのようなことが原因として考えられるだろうか。
ぼくはそのような「原因とメカニズムを探る」ということを長年つづけてきた。
よって、ど素人のわりには、自律神経についての知識はまあまああるほうだとは思う。
しかし、ここで愕然たる事実が発覚するのである。
「知識はクソの役にも立っていなかった」
という驚愕に値する事実である。
自律神経のメカニズムを理解することと、その緊張バランスを取り戻すことには、ほとんど因果関係はないのであった。
この図式は、いくら本を読んでサッカーのテクニックを学んでもサッカーが上達するわけではないという事実と、非常によく似ている。
あるいは、通信教育でカラテを習っても実際の試合では一人にも勝てないという事実とも非常によく似ている。
つまらないことに、気がついてしまったのである。
つまらないが意外とものすごく重要で、とくに自律神経にとっては唯一無二ともいえるかもしれないその調整法があることに、気がついてしまったのである。
このことに気がついてしまってから、ぼくは過去の行為を悔やまねばならない可能性があることに恐々とするはハメになった。
それは一般にいうところの
「伸び」
である。
まず、やはり自律神経がオカシクなるときはほぼ100%デスクワークを継続しているときであるということがわかった。
また必ずしもデスクワークに限らずとも、ずっとソファに座って本を読んでいたり、寝転んで映画などを長時間観ているときにも同様に自律神経に不調をきたす。
これらの行為の共通点は「長時間同じ姿勢でいる」ということである。
そして、長時間同じ姿勢でいた場合、人間だけでなくほぼすべての脊椎動物が行う「行動」がある。
それこそが「伸び」なのである。
イヌやネコでも、だあれもなんにも教えていないのに、長時間眠っていたときやじっと座っていたあとには、両前足を地面につけ、尻を上に上げて「伸び」をする。
おそらくこの行動は、知識とは関係がない、本能レベルに刻み込まれている基本機能なのであろうと思われる。
アクビのしかたを教わるひとなどいないように、伸びのしかたを教わるひとも、ふつうはいない。
映画やドラマ、アニメなどを観ていても、長時間デスクワークや勉強をしていた登場人物はよく「伸び」をしている。
しかし、非常に不思議なことに気がついたのであるが、ぼくは普段の生活で「伸び」をいっさいしないのである。
夜寝る前にヨガ(というかストレッチ)は毎日行っているし、運動不足にならないようにできるだけ外を歩くようにしたり、ときには筋トレなども行っている。
つまり「意識的な運動」はわりと豊富に行っているのである。
しかし、意外なことで「無意識的な運動」はあまり行っていないのだった。
長時間じっとしていてもリセット動作など一切行わず、動くときにはそのまま突如動き出すというのがぼくの習性である。
このことで、立ちくらみや息苦しさなどを頻繁に感じるというのもある。
長時間パソコン作業で背中を丸めてじっとしていたら、立ち上がったときに腰や背中、首などの脊柱の位置をリセットしたり、あるいは狭まった胸腔をぐっと広げるなどの行動は、非常に大切なことである。
大きく深呼吸をすることも、非常に重要なことである。
それをしなければ作業中の状態にからだが固まってしまい、酸素やガス排出交換が不足してしまうからである。
それを回避するために本能には「伸び」という安全装置というか、リセットプログラムが備わっている。
備わっているはずなのに、ぼくはそれをまったく行使しない。
「伸び」を行使しないために、酸素不足や不要ガスの排出が促進できず、胸郭の萎縮が治らないため息苦しく、血行も一時的に阻害されてクラクラするということがあったのかもしれない。
これに気が付き、ぼくはさっそく「伸び」を敢行してみたのである。
そこでわかったのが、
「ぼくの『伸び』は常軌を逸している」
ということであった。
映画やドラマなどで見る「伸び」では、あまり声を立てないようである。
声を出したとしても「ウーン」とか「ふうーっ」とかの、音の種類でいえば「唸り」もしくは「擦過音」程度のようである。
もし計測しても、デシベル計の針はそれほど動かない音量のようである。
しかし、ぼくが行使する「伸び」は、もはや騒音レベルである。
腰の後ろで手を組んでぐっと胸を開く動作をすると、ぼくはデシベル系の針が振り切れるのではないかと思えるほどの大声をあげてしまうのである。
それはたとえば、以下のような感じである。
「はううっ!
た・ハッ!・・・
んハああッ!・・・
フあああああ!、あ、あ、・・・
ハッ、ハッ、ハッ、ハ・・・、
わあああああああー!!!!」
最後の方は、まごうことなきただの絶叫である。
断末魔のような絶叫である。
そのときちょうど近くで娘がソファでウトウトと昼寝をしていたのだが、ぼくの「伸びの声」を聞いて、
「なに!? なんの音ッ??? どうした?」
とガバと跳ね起きて、そのあたりをアタフタしはじめたのだった。
そこでぼくは、
「ごめんごめん、伸びをしただけ」
といったら娘はキッとぼくを睨んで、
「そんな音とちがうよ! 家が揺れるぐらいの音がした!」
と断固として認めようとしないのであった。
そして、こんどは階下で
「どうした! なにがあった!」
という親父の声とともに、バタバタと走り回る音が聞こえるのであった。
つまりぼくの「伸びの声」は、家族にとってはもはや「災害級」であったということである。
ぼくが伸びをすると、家が上や下への大騒ぎになってしまうのであった。
映画やドラマと、ぜんぜんちがう。
予測するに、ぼくはそれだけ「伸びを貯めていた」ということなのではないか。
通常は、「ウフーン」ぐらいの軽い呻き程度のものを長年に亘って溜め込んだせいで、もはや「爆発級の『伸び』」として開放されたのではないか。
それ以降、ぼくは別の理由で「伸び」を躊躇うことになった。
不用意に「伸び」を行うと、家が大騒ぎになってしまうからである。
「この封印を解けば大災厄がもたらされるであろう」的な、中二病みたいな感じになってしまったのである。
「伸び」を行う場合は、家族に対して「今から伸びを行いますので」という事前告知が必要かもしれない。
あれだけみんなが大騒ぎをするのだから、もしかしたらご近所様にも告知をしたほうが良のだろうか。
「今から伸びを行いますので、騒音でご迷惑をおかけするかもしれません」と、菓子折りのひとつも持って挨拶に行くべきなのだろうか。
もしかしたら警察や役所にも「『伸び』実行に関する届出(書式ア-13)」とかも提出すべきなのかもしれない。
家族に迷惑はかけたものの、明らかな変化があった。
やはり「伸び」をすると、モヤモヤしていた感覚が消えてスッキリするのである。
立ちくらみのような、息苦しい感覚も消える。
つまり、あの自律神経の不具合のような症状は「伸び」によって大幅に改善されるのであった。
だからぼくは、このたびじぶんのことを「天然さん」ではないかと疑うのである。
こんな単純で、だれでもできるようなかんたんなリフレッシュを行わず、理屈と思い込みに埋没し、ヨガだのなんだの「へんなこと」ばっかりで問題を解決しようとしていたからである。
天然さんというのは、ハタから見れば可愛いところもあるのかもしれないが、じつは根本的に「思い込みが強い」ひとが落ち込む罠である。
客観性を喪失し、エゴに埋没したときにこそ「天然さん」は顔を出すものなのである。
さておき「伸び」は、やはり小出しにしなくてはいけない。
おそらくであるが、あまり「伸び」をしないのは、単純に言えば「伸びをするヒマもない」ということなのだろうと思うのである。
しかしむろん「伸び」に必要な数秒から数十秒の時間さえとれないほど忙しいということではなく、単純に気持ちの問題であろう。
仕事の〆切が日常なので、なんとなく普段から慢性的に追われている感覚になっているのだと思う。
「次になにを行うか」という段取りばっかりを考えているのである。
こころに、考えかたに、余裕がないということなのかもしれない。
おそらくこれは悪循環のなせるわざであろうと思われる。
「伸び」をしないがゆえに、胸郭が狭まって慢性的な酸欠状態になり、慢性的にアタフタしているのであろう。
やはりときには、意識的にでもいいから「伸び」を行うべきなのだろうと思う。
まずはとりあえず、
「トイレに行くときには、あえて一回『伸び』をする」
ということからはじめてみよう。
何度か繰り返せば、災害級の大音声もそのうち消えるはずである。