「もっと不真面目になりたい」
「もっといい加減になりたい」
そんな望みを持つひとは案外多いようである。
そこで、そのような人に対して本やネットは以下のようなアドバイスをするのである。
「もっとわがままになって良いのです」
「気楽にいきましょう」
「世の中は意外といい加減なのです」
「なるようになると思えば良いのです」
「じぶんに正直になりましょう」
「ひとのことは気にしないで」
「がんばらなくていいのです」
「ポイントを抑えて、あとは楽に生きましょう」
云々、云々。
さて果たして、上記のようなアドバイスに従ってほんとうに不真面目、あるいはほんとうにいい加減になれた人はいるのであろうか。
想像するに「一人もいない」のではないだろうか。
というのも、人からそう言われて「はいわかりました、では今後は『ポイントを抑えて、あとは楽に』生きます」と、スッと考えを変えられるような人らば、すでにずっと昔にそう変わっていたであろうからである。
ひどいのになると、
「いいえ、真面目は悪いことはないのですよ」
「真面目なことは、とても良いことなのです」
「あなたは、変わる必要なんてありません」
などといって、そもそもの相談を無視し、解決を放棄してしまう人さえいる。
コラ!
論点をすりかえるな!
逃げるな!
この、不真面目野郎が!
って思う。
あ、そうか。
なるほどこのように「人の相談内容を無視し、おのれの価値観をゴリ押しする行動」こそが「不真面目」の参考になるのだなあ。
もっと気楽にって言われて、ほんとうに気楽になれるような人は、そもそも悩んだり相談したりしない。
だからそういうアドバイスは100%不毛なのである。
そのようなしょうもない屁理屈は横に置いといて、観察をしてみたのである。
どうしたら不真面目になれるかではなく、不真面目なひとにはどんな特性があるか。
ちなみに不真面目といっても「ぜんぜん仕事ができない」とか「だんぜんバカである」というのを目指すひとは、あまりいないだろう。
仕事や勉強はそこそこできていて、頭も悪くはなく、日常生活が破綻しないレベルの不真面目さがほしいはずである。
いろいろ観察してみた結果、男女問わずそういう人にはある共通項があることがわかった。
「エロい」
エロいのである。
真面目な人にもむっつりスケベはいるし、かなりの変態もいるのだが、そういうのとは決定的に違うところがある。
エロいことを人にカミングアウトしていて、普段からエロによく接し、エロにとても寛容であるということだ。
つまり「エロを抑圧していない」のである。
スケベとか変態とかいう陰性のエロは、じつは「エロスの抑圧」によって起こっている。
性的な犯罪を起こす人に意外と普段は真面目な人が多いのは、もしかしたらここに理由があるのかもしれない。
ちなみにインドでは性犯罪が多発するが「法律でエロ本やエロビデオが禁止されている」からだという説もある。
性に対して不寛容な地域では性犯罪が起きやすいのだそうである。
「ナチュラル・エロ」の人はまさしく、仕事や勉強はそこそこできて、頭も悪くはなく、バランスの良いレベルの不真面目さを持っていることが多いようなのである。
これはイタリア人男性にも見られる傾向で、女と見ればすぐにナンパするがストーカーやレイプをするようなことはなく、断られたら笑顔でさわやかに去っていくという、清く正しいエロである。
そして仕事や勉強はそこそこできていて、頭もけっこうキレるひとが多い。
性をダブー視する価値観、性の倫理的抑圧が「くそまじめ」を生んでいるという可能性はないか。
そもそも日本は性に対してかなりオープンだったそうである。
夜這いの文化もあったし、浮気なんていうコトバが無意味なくらい男女はあっちこっちでセックスをし、ぽろぽろ子どもを生んでいた。
そしてその子どもは「みんなで育てる」みたいなところもあったらしい。
10月がなぜ「神無月」かというと、その月は神様が全員出雲にいって「だれとだれを結婚させるか」という会議をするからなのだそうだ。
神様からして、あかるいエロに加担していたのである。
そのように日本は古来から性に対してはあまり厳格ではなかったが、第二次大戦後にきゅうに性をタブー視するようになった。
これはキリスト教のうちでもとくにプロテスタント系の思想によるものなのだそうである。
ぼくたち日本人はキリスト教徒でなくとも案外プロテスタントの思想に強く影響を受けていて、厳格さや真面目さというのはだいたいこのプロテスタント系の思想がもとになっていたりする。
領土は侵犯されなかったかわりに、こころが侵犯されたということなのかもしれない。
ちなみにヨーガの思想では、性を司る「ムーラダーラチャクラ」つまり会陰〜尾てい骨のチャクラは、知性を司る「アジナーチャクラ」つまり眉間のチャクラと関係が深いとされている。
性的な抑圧が強いと知性にも悪い影響を与え、それはバカになるということではなく「歪んだ知性」を醸成しがちだという。
また、性エネルギーは人体において「もっとも根源的なエネルギー」であるとされ、性エネルギーの過剰な抑圧は知性だけでなく、全身にその影響が及ぶという説もある。
「真面目である」ということは、もしかしたら「性の抑圧」ということもあるのかもしれない。
「じつはワタシ、本当はエロくて・・・」
とかいうのは、どうでも良い話である。
そんなことは、むしろあたりまえの話だからである。
肝心なのは「自然なエロを隠蔽しているかどうか」つまり、おのれがほんとうはエロいことを人に隠していたり、タブーのような感情を持っていたりするかどうか、ということである。
観察するに「エロの開放」がなんらかの理由で阻害されたときに、アタマがおかしくなっている人が多いように見受けられる。
異常なまでの女好きというひともいるが、そういうひともある種の性的な葛藤を抱えていたりもするようである。
一見自由奔放に性を楽しんでいるように見えて、そのじつはなんらかの強迫観念によって異性を求めていたりする人もいる。
あたまの異常は、性の異常。
必ずしもとはいわないが、けっこうそういう場合もあるのかもしれないなあと思う。
人前では格好つけてエロい話はしない、というのは、まあまあ危ないのかもしれない。
だからぼくは、赤い目玉のような朝焼けに向かって、渾身で叫ぶのである。
お、お、おまんこーーっ!
ビバ・エローッス!