外交と日本神道

ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始したことについて、ふと思ったことがある。

かなり甘っちょろい考え方ではあるが、

「日本神道の考え方を外交に使う」

というのはどうか、ということである。

 

神道と言ってもいわゆる戦時中の国家神道ではなく、日本神道の根っこにこびりついている「タタリ」の発想である。

人はすべて死ねば神になる。

平和と喜びに満ちて死んだひとは「ウブスナ神」になり、この世界の生命を維持成長発展させる原理になる。

いっぽう、怒りと恨みを抱えて死んだ人は「タタリ神」となり、この世界の生命を阻害停止破壊させる原理になる。

このような思考があると「悪人でさえやり込めない」、いやむしろ「悪人だからこそやり込めない」という発想が生まれる。

つまり、悪いことをしたからといってバツを与えたりぶっ殺したりするのではなく、できるだけ事を荒らげないように「シズメル」ことに注力するという努力である。

 

今の世界では、どこかがルール違反をすると「制裁」という行動を起こす。

とくにメジャーなのが「経済制裁」である。

しかしこの経済制裁を幾度となく行ったことこそが、このたびの戦禍の原因のひとつにもなってしまったという皮肉がある。

それは決して経済制裁を受けたロシアが「キレてしまった」ということではない。

そうではなくて「経済制裁に対して免疫ができてしまった」。

 

バカではないのである。

幾度となく経済制裁を受けていれば、「経済制裁を受けても根幹が揺るがない構造」を模索するに決まっている。

そもそもソ連が崩壊した原因のひとつが経済制裁だったそうだから、ロシアがそのアキレス腱を補強しないと考えるほうがナメている。

過去幾度となく経済制裁を受けたことで、ロシアは徐々に外貨に頼らない経済を構築していった。

中国経済とも親和性を高めて、欧米経済だけに頼らない経済構造になっていたのである。

むろん、経済制裁がロシアにとって痛くないわけではないのだろう。

しかし痛いことは痛いが瀕死の重傷を負うほどではない、というレベルのようなのである。

だからこそ、今回のような軍事行動を起こせたという背景がある。

何度も経済制裁を加えることが、かえってロシアを強くしてしまったのである。

 

「やり込める」弱点がここにあるように思う。

「シズメル」行動を軽視して、「制裁」ばかりしてしきた結果、相手はもうその制裁に慣れてしまって、関係なくなってしまった。

だから今回いくらアメリカやヨーロッパ、日本などが経済制裁を加えたとしてももはや「蛙の面に水」になる可能性がある。

そうなったらもう「負け」である。

いくら殴っても痛がらない相手を殴り続けても、疲弊するのはこちらである。

 

経済制裁が効かない。

そうなったら、次はどうするべきなのか。

「相手の要望を飲む」

「さらなる強硬手段をとる」

という二者択一になってしまうのではないだろうか。

そして「さらなる強硬手段」は、経済制裁が効かないのなら、これは軍事的制裁になる可能性が高い。

ということはすなわち、世界戦争である。

言い方はちょっと悩ましいが「経済制裁を繰り返したことで世界戦争の火種を生んだ」とも言えてしまうような気がする。

 

相手に制裁を加えないことを「甘い」という人は多い。

強硬な態度を示さないことを「弱い」という人も多い。

しかし、これはある意味逆だともいえるのではないか。

「制裁を加えることで相手が学習し、強く成長していく」という、一般成長原理を考慮していなかった「甘さ」があるのではないか。

「強硬な態度を示すことで相手に恐怖を与え、逆襲する準備をさせてしまう」という、一般反応原理を考慮していなかった「弱さ」があったのではないのか。

ひとは、恐怖があるからこそ学習するし、準備をする。

恐怖がなければ、学習も準備もしない。

相手を怖がらせるということは、有事に備えて学習し、入念で抜かりのない準備をさせるということと全く同義なのである。

そして閾値を超えたとき「タタル」。

強硬な手段と制裁が「タタリ」を生むのではないのだろうか。

 

おそらくではあるが、世界戦争を回避するためにはもう以下の方法しかないのではないかと思う。

・ウクライナはNATOに加入させないという約束を、NATOがする(ロシアが恐れているのはウクライナではなくNATOなので、NATOを主語とした行為に意味があるような気がする)。

・そのかわりロシアはウクライナを完全開放し、内政干渉もしないという約束をする。

つまりこれは「欧米系派閥のボコ負け」である。

ロシアの言い分をほぼ100%飲む形になってしまうからである。

 

「タタリを生まない外交」

というのは、やはり甘いのだろうか。

しかし「ものすごく怖いやつ」が生まれるのは、だいたいそこに恐怖があるからである。

恐怖を与えるからこそ、おそろしく凶悪で残忍で知に長けた人間が生まれてくる。

残酷は「欲」からではなく「恐怖」からうまれる。

だからこそ、この世に残酷を産まないために「タタラセズ」「シズメル」ことの重要性を日本神道は説いていたのではないのかなと思ったりもする。

「ナメられない努力」「勝つための努力」よりも「上手に負ける努力」「引き分ける努力」のほうが大事なことは、案外多いように思う。

 

戦争はほんとうに勘弁してほしい。

ほっといても人は死ぬのに、わざわざ少し早く殺すためにカネと労力と時間を使うのは、アルゴリズム的にクソのような気がしてしかたがない。

戦争に勝った国でも不幸の種が消えないのなら、幸福のために戦争はとくに必要なかったといえる。

遠い国でも、軍人さんであっても、戦争のようなことで人が死ぬのは見るに堪えない。

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