あたりまえの話

この10年ちかく、ぼくは自律神経がおかしいといって騒ぎながら生きてきた。

またなぜ自律神経がおかしいのかを本やネットなどで一生懸命に探し、考え、ヨガなどもやって、その改善に努めてきた。

騒ぎながら、探しながら、考えながら、努力してきたのである。

 

ふと気がついた。

もしかして、そんなに大騒ぎするようなことではなかったのではないか?

 

健康な子どもや若い人たちを見ていると共通して見えてくることがあって、それは「長時間デスクワークをすると疲れる」と感じる人が多いということである。

試験勉強などで長時間机に向かって作業していると、1時間から2時間でほとんどの人は

「あー、疲れた!」

といって、作業を中断するのである。

で、どっかに行ってしまったり、勉強をやめて遊び始めてしまう。

ここが重要である。

健康な人は、デスクワークを継続すると疲れる。

 

今日もそうだが、ほぼ毎日ぼくは朝の5時半ぐらいから仕事をしていて、それもそのほとんどがパソコン作業である。

今は10:30だから、すなわち4時間〜5時間ほとんど休憩なしにデスクワークをしていることになる。

健康な若いひとでさえ試験勉強で1〜2時間作業をしていただけで非常に強い疲労を感じるという。

この疲労感がイヤで、そもそも勉強はしないという学生もいるぐらいである。

しかしぼくは5時間デスクワークを継続してもあまり疲労感を感じない。

その代わりに40歳ぐらいからデスクワークをしていると妙な息苦しさを覚えたり、唐突な動悸やのぼせを感じたり、変な話だが風邪を引きやすくなったりしている。

これをして「自律神経がおかしい」とぼくが騒ぎ、ぼくが騒ぐのでお医者さんも騒いでいた。

 

おじさんのぼくと、若い人を比較すれば、若い人のほうが体力は断然ウエであろう。

体力がウエの人が強い疲労を感じるような作業を、体力のないおじさんが行えば、いったいどうなるであろうか。

疲労困憊でヘトヘトになってしまうのは、火を見るより明らかではないのだろうか。

 

自律神経がおかしいのではなく、「鈍感」だったのではないか。

明らかに疲れるようなことをしているのに、その疲れを正しく認識できていないのではないか。

鈍感なくせに「わたしは繊細すぎる」「わたしは弱い」などと、お恥ずかしい限りの勘違いをしていたのではないだろうか。

この構造は、ほんとうはブサイクなのに「美しさって罪よね」的な自罰感覚を持っている感じとよく似ていて、たいへんに気色悪いことなのではないか。

ぼくは戦慄する。

ようするに、疲れていたのではないか。

長時間のデスクワークによって、疲労していただけなのではないか。

5年間もくそまじめにヨガなどを行い、食事も菜食中心に変更し、その他自律神経失調の改善に良いとされるさまざまなノウハウを数多試してきたが、てんで的はずれなことをしてきたのではないか。

 

その証拠に、あらゆるノウハウをいったん放棄して定期的に「伸び」を行うようになってから、劇的に自律神経の調子が改善した。

ということは、「伸び」には効果があったが、「あらゆるノウハウ」には効果がまったくなかった、ということである。

月額4000円也を支払い、合宿にも参加してくそまじめに学習してきたヨガではなく、完全無料で学習の必要性など一切ないただの「伸び」によってぼくの自律神経は改善したのである。

 

わしゃあ、何をやっとるんじゃあ。

 

これがつまり「思い込み」ということなのかもしれない。

どこか悪いところがあったら、それを改善するための「努力」をしなければならない。

この世には改善法というのが必ずあるはずで、だからそれを探し、学ぶ必要がある。

そうしなければ、悪いところは決して改善しない。

というような、あたまでっかちの、アタオカ系思い込みを継続していたのかもしれない。

 

あたりまえのことが、あたりまえに見えない。

おそらくであるが、このことが人間における最大級のバグなのではないだろうか。

そして、あたりまえのことがあたりまえに見えなくなる原因の最たるものが

「知識」と「努力」

なのかもしれない。

じぶんでじぶんのことを賢いと思いこんでいる、エラそうなオッサンやオバハンが、こんなことをよく言う。

「ただしい知識と、ただしい努力が必要なんだ」

本当にそうか?

これは根本的に、疑う必要があるのではないか。

もしかすると、以下のことのほうが「正しい」可能性がある。

原則として、どのような知識も、どのような努力も不要である

 

あたりまえのことを、あたりまえに見るためには、「空虚」が必要なのだそうだ。

ココロがいろいろな知識や経験、感情、願望などでパッツンパッツンになっていると、なんにも見えなくなってしまうらしい。

見えたとしても「歪曲して」見るのだそうだ。

 

勉強も、努力も、考えるのも、真面目なのも、ぜーんぶせーんぶ、やめちまえ。

ココロをからっぽにするためには、はっきり言ってこの世にはそれしか方法はない。

「ココロをからっぽにするための方法を探している」

その時点で、お前のココロはドロッドロに濁ってる。

 

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